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give me one dollar

 カンボジアでは、お金をくれと子どもにせびられることがたびたびあった。

 今日の日本人には物乞いはみっともないこと、みたいな感覚があると思う。もちろん戦後は日本人の子どももアメリカ兵に物乞いしてたんだろうけど、今日では物乞いする人ってのはほとんど見かけないですよね。ホームレスのおっちゃんたちも空き缶集めたりとか、何かしら仕事してる。そのせいか、人にお金をあげることに僕はとても抵抗があります。(ヨーロッパを旅行したとき、教会の前で突っ伏して小銭を請う人が少なからずいて、軽いショックを受けた)

 そもそも見ず知らずの大人が、子どもにただでお金をあげることは教育上よくないと思う。日本人は金持ってるからっていう理由で金をせびられるのも納得がいかない。お金は働いたり何か売ったりした対価として得られるべきもので、ただ金寄越せっていうのは道理にかなわないと思う。

 一緒に旅行したお姉さんは何度もカンボジアを旅行していて旅慣れてるんだけど、子どもたちにねだられると、「仕方ないなぁー」と言ってお金をあげることもあった。なるべくそうならないようにシンガポールでお菓子を調達してきて、子どもが金くれって言ったらお菓子をあげることでその場をしのぐようにしてたんだけど、一緒に遊んだ子どもたちにお金をあげることもあった。お金をあげると子どもたちはすごく喜ぶ。

 そんな風に喜ぶ姿を見ていると、堅いこと言わずに、お金をあげちゃうのもありなのかなー、とも思った。もちろん、群がってくる子どもたちみんなにお金をあげてたら、一人に1ドルずつでもトータルではかなりの額になってしまう。だからみんなにお金を配ることなんて不可能なんだけど、1ドルあげるだけであんなに喜ぶんだったら、先進国からやって来たちょっとしたサンタクロースみたいな役回りを演じることも、悪いことではないのかも知れないと思った。

 子ども以上に難しいと感じたのが、地雷で足を失った人にお金をあげることだ。カンボジアは国による福祉とか皆無だろうから、彼らは物乞いで生きていくしかないのだろう。でも一方で、足がなくても楽器を演奏して観光客からチップをもらっている人達もいた。伝統工芸品を作って売ってる人もいた。そういうのに対価を払うのがあり得べき寄付というか、慈善のあり方ではないかと思う。ただなくなった足を見せてギブミーワンダラーと言ってる人にお金をくれてあげるのは、こちらの心も痛むしやりきれない気分になる。いまこのおじさんに自分が1ドルあげても、カンボジア中の地雷被害者の持続的な生活の向上には繋がらないことが明らかだ。それよりも、こういうおじさんたちが何か技能を身につけて、継続的に暮らしぶりをよくしていけるような仕組みを作ることの方が大切だ。先進国の旅行者の同情に身を委ねる人生は惨めだと思うし、おじさんたちの自尊心も傷つけられるだろう。

 先進国に生まれた人間の甘っちょろい意見なのかも知れないけれど。

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 カンボジアに着いて最初に訪れたのはアンコールワットでした。アンコールワットについては歴史や地理の授業でたびたび習いましたが、教科書や資料集に載っている写真は色調に欠け、石でできた味気ない遺跡という印象しか持っていませんでした。しかし初めて訪れたアンコールワットは荘厳で、圧倒されてしまいました。

 カンボジア到着が夕方だったため、最初に見たアンコールワットは夜のライトアップされたものでした。これはとてもラッキーだったと思います。遺跡はシェムリアップの市街から少し離れた場所にあるのですが、あたりは森に囲まれており、暗闇のなかに浮かび上がるアンコールワットの姿は見事としか言い様がありません。

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 遺跡には昼間も訪れましたが、観光客だらけで混み合っており、ゆっくり見て回ることが出来ませんでした。回廊に掘られている彫刻を眺めるにしても、夜間のライトアップされた光のなかで見るのと昼間の太陽光で見るのでは大きく印象が異なります。まるでイタリアのルネサンス建築のように美しいのです(イタリア行ったことないですけど)。

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 高校で習う世界史では、文明はどうしても西欧や中東、中国を中心に発達したような印象を持ってしまうのですが、東南アジアのカンボジアにも、インドから伝来した非常に高度な仏教文化が花開いていたことを知ることができました。

 アンコールワットのライトアップはいつもやっているわけではないようですが、もし期間が合えば、昼だけではなく夜も訪れる価値のある遺跡だと思いました。夜の涼しい時間にゆっくり遺跡を歩いて回ることができて、とてもよかったと思います。夜の闇に浮かび上がる彫刻を眺めながら、悠久の時の流れを感じることができました。

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 シンガポール建設の祖は19世紀初めにシンガポールにやって来たイギリス人のラッフルズ卿でしょうが、今日のシンガポールの礎を築いたのはリー・クアンユーというおじさんであると断言して良いでしょう。いまだ存命の人ですが、引退後も顧問相として国政に影響を及ぼし続けています。というか、現在の首相、リー・シェンロン氏はリー・クアンユー氏の実子です。

明るい北朝鮮

 シンガポールはたびたび欧米のメディアや国境なき記者団などから言論の自由がないなどと批判されます。新聞や放送局はリー・シェンロン氏の妻が経営するテマセク・ホールディングスが株式を保有しており、政府の管理下にあると言えます。

 政体は一党独裁で、リー・クアンユー氏が創設した人民行動党が独立以来政権を維持し続けています。現在も84議席のうち82議席を占有し、ゲリマンダーや野党候補を当選させた選挙区民へのペナルティーなどなりふり構わないやり方で権力を維持しています。

 経済こそアメリカ型の市場主義を受け入れていますが、政体は世襲型の独裁政治であり、このためシンガポールは明るい北朝鮮だとも言われています。

なぜシンガポールは独裁国家なのに北朝鮮みたいにダメにならないのか?

 それはリー・クアンユーという人の人柄によるところが大きいと思います。シンガポール国立博物館のシンガポール独立以後の歴史を紹介するコーナーで、一本のビデオが繰り返し再生されていました。

 シンガポールは当初、いまのマレーシアと同一国家として1963年にイギリスから独立を果たしたのですが、マレー系と中華系の対立などもあって、1965年にマレーシアから追い出されるかたちで独立します。リー・クアンユーはマラヤ人(華人、インド人、マレー人の総称?)の融和を人生の目標と掲げて奔走してきたため、独立の事実を国民に伝える際にこらえきれず泣き出してしまいます。そのくらい、国の将来を真剣に考えていた人なのでしょう。

 もし望むならリー・クアンユーはいくらでも私腹を肥やすことが出来たでしょう。しかし彼はそれをせず、国民に厳しいルールを課する代わりに政権内の汚職を徹底的に排除し、清廉潔白な国家運営を行います。その結果が今日のシンガポールの繁栄であると言えるでしょう。

 個人的にはリー・クアンユーという人は、日本の政治家では田中角栄に近い感じなんじゃないだろうかと思っています。ビデオで見た国民に語りかける姿が田中角栄にとても似ていました。田中角栄は私腹を肥やすことに余念がなかったけど(ロッキード事件など)、リー・クアンユーはそうしなかった。それが相違点かなと思います。

 実は日本経済新聞社からリー・クアンユーの回顧録が出ていてとても面白そうなんですが、どうやら絶版の模様。上巻はAmazonで比較的安く手に入りそうなんですが、下巻はレア本のようで高値が付いています。シンガポールの歴史を学ぶことは、小国で資源がない国がいかにして経済大国になり、現在も高成長を維持し続けられているかを学ぶことでもあり、リー・クアンユー回顧録は是非とも読んでみたいと思っています。近いうちに文庫化されると良いのですけど。

回顧録を読んだ方の感想

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ラストキング・オブ・スコットランド
ケヴィン・マクドナルド

 ウガンダが舞台。主人公はスコットランド人の若い医者ニコラス・ギャリガン。医大卒業後、堅苦しい父親とイギリスに嫌気がさし、目を閉じたまま地球儀を回して指さしたところに行くと決め、ウガンダで医療に従事することに。ひょんなことからけがをしたウガンダの大統領、アミンの治療をすることになる主人公。大統領の前であっても臆さず大胆な行動を取るギャリガンを気に入り、アミンは急遽彼を首都に呼び寄せ、主治医にする。

 アミンから豪邸と高級車を与えられ、何不自由ない毎日を送るギャリガン。医師の立場を超えて、政治に口を挟み、アミンの側近となる。しかし次第にアミンの本性を知るようになっていく。猜疑心の固まりで、気に入らない人物はすぐに処刑。おかしいと感じたときに既に手遅れ。

 それにしても登場するイギリスの弁務官(外交官?)がめちゃ感じ悪い。婉曲的、遠回し表現のオンパレード。アミンの主治医に就任した当初、在留英国人(Englishman)と知り合えて嬉しい、みたいなことを言うんだけど、ギャリガンはスコットランド人であり、当初から彼に対して反発を覚える。一時は英国政府のスパイにならないかと提案されるがそれを拒むギャリガン。アミンとの関係が悪化し、英国のパスポートを盗まれたギャリガンは、パスポートの再発行を頼もうと外交官のもとを訪れるのだが、冷たくあしらわれ門前払いを食らう。

 『ホテル・ルワンダ』にしてもそうだが、結局旧宗主国の統治制度がアフリカの国々の混乱を招いている。アミンだってイギリスの植民地軍出身であり、イギリスに都合の良いように懐柔されていたのが、突然言うことを聞かなくなったから問題視されるようになっただけ。結局はアフリカの国々をかき乱しているだけという印象を受ける。

 それはアメリカのイラク政策だって同じかな。フセインも冷戦時代に対ソ戦略でアメリカの支援を受けていたというし、ウサマ・ビン・ラディンだって確かそうだったよね? 東南アジアでも、カンボジア、ベトナムで、共産勢力に対抗するために国内をぐちゃぐちゃにかき乱している。

 その意味でこの映画は、ウガンダ一国やアミンだけのことについて語ったものというより、イギリスの植民地政策やアメリカの第三世界政策について述べたものとして見るのが正しい見方かなと思う。

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 夏にSIGMAの30mm F1.4 HSMを買った。HSM(超音波モーター内蔵)なのでD40Xでもオートフォーカスできる。暗いところでも明るい写真が撮れるし気に入ってるんだけど、気になる点もある。

  • 重い

    重量が結構ある。D40系はボディが小さくて軽いので、首から提げてるときはびよ〜んと前に傾く感じになる(といっても単焦点なのでVR 18-200mmみたいにレンズ自体が延びるわけではない)。

  • 寄れない

    D40Xのキットレンズ(18-55 ED)はマクロなわけではないが最短撮影距離が28cmで、結構近くまで寄って撮ることが出来る。ヤフオクの出品物撮影時などに重宝する。しかしSIGMAの30mmはあまり寄れない(40cm)。室内で食べ物の写真を撮るときなんかは明るいレンズが打って付けなわけだが、立ち上がって中腰くらいにならないとテーブル上の料理にピントがあってくれなかったりする。惜しい。

  • 30mmは中途半端な気も

    最近、SIGMAから50mm F1.4 HSMも出た。和風建築の家で使うんだったら30mmは丁度良い感じなんだけど、洋風の家の中だと30mmという画角はいささか広角過ぎる感じがする。テーブルを挟んで向かいに座った人の写真を撮る場合、なんだか寂しい感じになってしまう。50mmだったらきれいにバストショットが撮れるんではなかろうか。実際自分が18-55mmのキットレンズで撮ってるポートレートも焦点距離55mmのものが多い。

 なお50mm F1.4については、Nikonからも冬頃に発売されるらしい。こちらもレンズ内モーター式のAF-Sレンズであり、D40/D40X/D60で使用可能だ。しかもSIGMA版が500g超のベビー級レンズであるのに対してNikonの純正は重さわずか280g。SIGMAの30mmを使っていて重さは結構ストレスになることに気がついたので、もし僕が50mm F1.4のレンズを買うんだったらNikon純正にすると思う。値段もほぼ同じだし。っていうかいまならAmazonで予約するとSIGMAの50mmよりも安く買えそうな感じ。

 今回の東南アジア旅行にもSIGMA F1.4 30mmを持ち出して使ってみたわけだけど、正直単焦点には不安もあった。撮りたい写真が画角の制限のせいで撮れないんじゃないかって。でも開き直って30mmであることを受け入れて歩いて寄ったり離れたりすれば結構何とかなるもんだなと気がついた。

hari raya

 やはり明るいレンズで撮った写真というのは味がある。夜のアジアの屋台の撮影なんかは明るい単焦点じゃないときれいに撮影することはほぼ無理なんじゃないだろうか。ズームできないことを補ってあまりあるだけのメリットが明るいレンズにはあると感じた。

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 プライベート・ライアンをレンタルして見た。

 Gigazineにプライベート・ライアン冒頭のオマハビーチ上陸シーンをたった三人で再現、みたいな記事が出てて、それを見て無性にまた映画を見たくなって、レンタルした。

 やはり冒頭のオマハビーチ上陸シーンは圧巻である。一般の戦争映画は人間の手足がちぎれたり、はらわたを露出して苦しむ兵士の姿は出てこない。爆弾が落ちても、迫撃砲でやられても、建物が壊れて人が五体満足のまま飛び跳ねるだけだ。

 しかし建物を破壊するような威力のある砲弾が人体に当たれば、どんな結果をもたらすかは明らかだ。四肢が飛び散り、人間の体はミンチになってしまうのだ。

 そういう戦場の真実を再現している点で、プライベート・ライアンはすごい。

 上陸シーンで印象的なのが、人海戦術だ。冒頭、揚陸ボートの前方ハッチを開けた瞬間、ドイツ軍の機銃掃射で兵士たちが次々死んでいく。しかし撃たれても撃たれても次々にボートが到着し、兵士がビーチに向かって前進する。海はアメリカ兵たちの血で真っ赤に染まる。

 そもそもノルマンディー上陸作戦全体では、あまり大した被害は出ていないらしい。唯一オマハビーチ上陸作戦だけが死傷率50%を超えるという凄惨な状況だったようだ。

 これには作戦上のミスがいくつかあったらしく、戦車を運んでいた揚陸艇が高波にさらわれて、すべての戦車が水没したらしい。そのためビーチで兵士たちをドイツ軍の機関銃から遮る物がなにもなく、被害が拡大したようだ。

 僕はプライベート・ライアンの後に、現代の戦争をテーマにした『ブラックホーク・ダウン』という映画を見たんだけど、プライベート・ライアンでは負傷した兵士が結構放って置かれる印象を受けた。少なくとも、戦闘が終わるまではどんなに怪我をしようとも構ってもらえない。まあそれが戦場のクールな現実だと思うんだけど、ブラックホーク・ダウンでは、ちょっとでも味方兵士が負傷すると。「Medic!(衛生兵)」という怒号が飛び交う。

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 『Mr.ビーン カンヌで大迷惑』を見た。

 僕は高校生のころからMr.Beanが好きでよく見ていた。Mr.Beanは10年前にも映画化され、『ビーン』というタイトルで劇場公開された。これはMr.Beanが手違いで英国の著名な美術評論家としてアメリカに派遣され彼の地ではちゃめちゃやるというもの。でも基本、披露されるギャグがテレビ版からの拾い集めで、テレビシリーズの要約版という要素が強かった。まぁ面白かったけど、テレビ版の方が断然面白いと思う。(アメリカよりもイギリスの方がかちっとした格式を重んじる国柄だと思うけど、イギリス人のMr.Beanが生真面目なアメリカ人の学芸員の家にホームステイしてはちゃめちゃなことをやらかすというのは皮肉が効いていて逆に面白いかも。この辺のアメリカ人を困らせる感じは『ボラット』に近い)

 それで今回の『Mr.ビーン カンヌで大迷惑』なわけだけど、こちらは『ビーン』に輪をかけてつまらなくなっていた。理由を考えるに、

  • そもそもMr.Beanは狡猾かつ卑怯な手段でちょっとした得をしようとするところが面白いのに、映画では善人として登場するので狡猾さや卑怯さを表現しにくい。(ドラえもんの劇場版でジャイアンやスネ夫が善人になるのに似ている。でもジャイアンやスネ夫は脇役なので劇場版で善人になると新鮮な感じがしてすがすがしい気分になれるんだけど、Mr.Beanは主人公である。狡猾な主人公が映画版で急に善人になるのは「なんか違うだろ」という気がしてしまう)
  • テレビ版は10分程度の細切れコントの中にギャグを詰め込んでいくので、ストーリーとか全体の流れを気にせずにやりたい放題やれる。しかし2時間の映画版だと映画のストーリーという絶対に外してはならない長大な流れがあって、これに沿わなければならない。一つ一つの場面があとにつながるための意味を持たなければならない。そのため全体的に窮屈な印象を受けることになる。

の二点かな。

 Mr.Beanはクジでカンヌ行きの旅行券を当ててカンヌ旅行に出かけるんだけど、途中で列車に乗り遅れたりレストランではちゃめちゃやったりと大暴れする。まぁこの辺はテレビシリーズでも繰り広げられるような、おなじみの展開。なんだけど列車に乗って以降の展開がぐだぐだ感あふれていて、正直だるかった。書くのもだるい感じなので詳細は書きませんけど。

 ラストなんか前作『ビーン』以上に露骨なハッピーエンドで、退屈極まりなかった。

 総じてギャグにもブラックさがなくて、いまいち。例えば『ビーン』ではアメリカの空港で、本当は銃を持っていないのに、警察官の姿を見かけるやジャケットの内ポケットに手を入れる仕草を繰り返して警官を挑発したりと、テレビシリーズで見られるような非常にきわどいギャグが見られた。翻って今作では物乞いの真似事のようなことをやるとこらへんくらいしかブラックなギャグは披露されず、物足りなかった。

 やっぱりMr.Beanはイギリスの物憂げな空のもと、人を小バカにするような感じで破天荒ギャグを繰り広げてこそだと思う。南仏の明るい太陽の下ではMr.Beanの陰惨なギャグは冴えない。

 蛇足ですけど、テレビシリーズで僕が好きなMr.Beanのエピソードは、DVD3巻に収録されている『ミスター・ビーンのクリスマス』ってやつ。これはすこぶる笑えるので、レンタル屋でDVD置いてたら借りてみてください。百貨店でクリスマスツリーの飾りを床にたたきつけて強度を調べる、クリスマスツリーを買おうとしたら自分の番の直前で売り切れたので広場のもみの木を倒して持ち帰る、七面鳥の重量当てクイズで体重計を使う等々、Mr.Bean飛ばしまくりです!