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 さっき日曜の日経を読んでいたら、書評で村上春樹の『東京奇譚集』が評されていた。評者の名前は失念したのだが、子どもが出てこない云々ということが語られており、父親になりきれない主人公が問題視されていた。

 村上作品に出てくる人々の家族構成は貧弱である。翻訳事務所の共同経営者だったり、司法試験受験生崩れだったり、電機メーカーの宣伝部員だったり、フリーライターだったりする主人公はだいたい独身で、結婚していても妻との二人暮らしで子どもはいない。80年代までの村上春樹はそういう都会に住む読者をターゲットにした都会的でクールな作風一辺倒だった。これが村上春樹が成功した要因の一つであったと思うのだが、90年代に入ってから、やたら現実社会を意識した作風に変わり始めた。それがつまらないということは以前の記事でも触れた。

 評者氏はそのことを主人公が父親になりきれない点に見いだしている。村上春樹は変わろうとしているのだが、変わり切れていない。かつて『神の子どもたちはみな踊る』内の「蜂蜜パイ」という作品で初めて、主人公は父親になろうとしたのだが、結局その後の『海辺のカフカ』では父親としての主人公は登場しなかった。やはり村上春樹にはシリアスな家族の物語は書けないのである。

 以前どこかで、大江健三郎が村上春樹を批判しているという文章を読んだことがある。出所が定かではないので事実であるかどうかは自分自身でも疑わしいのだが、僕の記憶の中の大江に言わせれば村上作品には救いがないのだという。確かにその通りである。村上作品のクールで格好良い世界の終演には虚無が残されるだけである。あれだけ若い人に支持されているのだから、物語に救いを与える使命があると、大江は指摘していたように思う。

 クールな世界観を提示していればよい時代は終わったと、六十手前の作家は焦っているのだろうか? 最近の作品では、これまで書いてこなかった出来事を書こうとしているのは明らかである。

 男女の恋愛や、男同士の友情などでは表現しきれない、もっと普遍的で大切な何かが物語には存在する。それは家族の物語だと思う。そしてそこにこそ真の救いがあるのではないか。なぜなら人間は必ず家族に所属しているからだ。例えそれが不幸な家族であるにせよ、やはり自分を生んだ親は親であり、家族は普遍的なテーマを含んでいるのだ。しかし村上春樹はそこを語り得ていない。実父との確執がそれを阻んでいる、という見方もあるようだが、真偽は定かではない。

 主人公が「父親」になり得たとき、村上作品は新たな地平に到達するのではないだろうか。