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平戸

去年( 2019 年)の年末、今年行ったところアドベントカレンダーに登録したが、いろんなアドベントカレンダーに登録しすぎて記事を書くことができなかった。 11 月に入って 2020 年のアドベントカレンダーの募集が始まったみたいなので、今年のシーズンが始まる前に去年のやり残しを片付けておきたくなった。ということで 11 ヶ月遅れで「今年行ったところ」です。


2019 年に行ったところでは 10 月に訪れた平戸が一番心に残っている。このときは平戸を訪れることが目的だったのではなく、平戸の手前、旧田平町にある中瀬草原キャンプ場1でのキャンプが目的で、キャンプに行ったついでで平戸の街に偶発的に立ち寄った。昼過ぎにテントを片付けて腹が減っていたし、このまま帰るのはもったいない(福岡から平戸までは車で 3 時間近くかかり、一泊キャンプしただけで帰るのはガソリン代や移動時間のコストパフォーマンスが悪い)と思われ、気まぐれで訪れたにもかかわらず、平戸の街は強く印象に残っている。

平戸大橋

平戸は島であり、平戸に入るには平戸大橋を渡る必要がある。平戸大橋の下には田平港があって、昔は船で海を渡っていたようだ。平戸を訪れたあとに読んだ司馬遼太郎の『街道をゆく 肥前の諸街道』では渡し船に乗っていた。

平戸の街に入り、平戸港交流広場に車を停めた。 2 時間までは駐車料金が無料だった。ここは港であると同時に観光案内所(とても綺麗なトイレがある)でもあり、観光スポット情報を集めた。

平戸にはオランダ商館(オランダ商館の跡地に建物が復元され資料館になっている)と松浦歴史資料館(旧平戸藩主まつ2から寄贈された松浦氏の私邸を資料館に改装したもの)、ザビエル記念教会がある。時間的に遅く全部回ることはできなそうだったので、まずはザビエル記念教会、その後オランダ商館に行くことにした。

平戸城

ザビエル記念教会

ザビエル記念教会は丘の上に建っている。おもしろいことにこの教会に辿り着くまでの坂道にはお寺がたくさん建っており、寺町を通り抜けて坂を登り切ると教会が建っているという不思議な空間になっている。教会からは竹林越しに平戸城が見える。

ザビエル記念教会

ザビエル記念教会

教会のすぐ下はお寺

教会のあとは平戸の街を通り抜け、オランダ商館を訪れた。

アンティークショップ

オランダ商館

オランダ商館

オランダ商館は復元された建物だ。平戸が貿易港として栄えていた頃に商館は作られたが、 1640 年に幕府の意向により貿易はすべて長崎の出島に集約されることになり、商館は破壊された。破風に西暦の年が書かれていることをキリスト教に警戒感の強い幕府から咎められたと言われているが、多分こじつけで、貿易の果実を松浦氏に独占させたくなかったのかもしれない。長崎ならば天領で、貿易の利益を幕府のものにすることができる。

商館には帆船の模型や松浦家が所有していた西洋の甲冑のほか、オランダ商館の家財や、当時貿易されていた品(器や香辛料など)が展示されている。商館の建物自体の構造も解説されていて、木造建築技術しかなかった 400 年前にいかにして貿易品を貯蔵するための巨大な貯蔵庫を建築したのかや、二階の窓から物品を積み下ろしするための巻上機(リフト)の構造を知ることができる。またオランダ人と結婚した日本人や、オランダ人との間に生まれた子どもがインドネシアに追放され、ジャカルタから「日本が恋しい」と綴って日本に送った手紙(ジャガタラ文)の展示もある。

オランダ商館の帆船模型

オランダ商館の帆船模型

松浦家に伝わる西洋の甲冑

荷物をリフトアップするための巻上機

商館は平戸瀬戸を見渡せる町外れにあり、平戸城や平戸の街を一望できる。平戸大橋も綺麗に見える。

オランダ商館から見る平戸城

オランダ商館から平戸瀬戸と平戸大橋

商館近くには荷物の積み下ろしに使われていた埠頭が残っている。埠頭といっても簡易な石造の階段で、こんな小さな石段を介して歴史を動かす交易が行われていたのかと思うと感慨深かった。

写真左下の石段がオランダ埠頭

商館自体は復元された建物だが、商館および商館員たちが暮らした居留地と市街の間には漆喰塗りの壁が現存している。オランダ塀と呼ばれていて、防火や市民の視線を避けるために作られていたものらしい。

オランダ塀

長崎の出島同様、オランダ商館は市街から隔絶されていたのかもしれない。長崎の街もだいぶコンパクトだが、平戸はさらに街が狭く、平戸城はもちろんのこと、町中の至る高台から商館を見ることができる。街がコンパクトなため、壁で隔てられていても完全に隔絶されているわけではない。商館と平戸の街との一体感のようなものを感じた。きっとそれは江戸初期も同じだっただろう。今日訪れてみても、長崎以上に異文化がすぐ隣にあったことを感じとれる街だと思う。

街並み

ちょうどこの日は平戸くんち最終日だったようだ。昼間は少々観光客がいたのかもしれないが、夕方になると街はがらんとしていた。平戸は福岡から遠いため、観光客の引きも早いのだろう。日本海側ということもあって、日が傾くとなんとも言えない寂しさが際立った。

街並みは木造建築を主として歴史的景観を保とうという努力が感じられる。信州の中山道沿いの宿場町のような雰囲気がある。おくんち期間中だったのでどこの家も松浦家の家紋ののれんを掲げていた。長崎も同様におくんちの期間にはのれんを掲げるが、支配者の家紋ではなく自家の家紋入りののれんを掲げる。また長崎は一部木造建築の建物もあるが、大多数は近代的なコンクリート造や鉄骨造の建物3で、歴史的な景観というのはほとんど見られない。その点で長崎生まれの嫁さんは平戸の街の景観に感銘を受けていた。

平戸の街並み

平戸の街並み

平戸の街並み

平戸の街並み

感想

正味の滞在時間が 3 時間くらいしかなく、ほんのちょっとしかいられなかったが、平戸はとても味わい深い街だと思った。オランダ、ポルトガルとの交易の歴史では長崎の陰に隠れがちだが、最初にポルトガル船が往来するようになったのは平戸だし、オランダとの交易を最初に始めたのも平戸だった。その前の時代には松浦党や倭寇の歴史もある。世界史で習う台湾の偉人の鄭成功は平戸生まれで母親は平戸の人だ。隠れキリシタンの歴史もある。キリシタン関係でも長崎市が注目を集めがちだが、江戸期に隠れキリシタンとして信仰を続けたのは五島や平戸の人たちだった。歴史のほかにも、海の美しさが挙げられる。平戸西部にある人津久海水浴場や根獅子の浜海水浴場は沖縄の海と見まごうばかりの美しさだ。

九州に住んでいてまだ平戸を訪れたことがない人は是非一度訪ねてみて欲しい。九州の日本海・東シナ海側には南国のイメージと違った、独特の雰囲気がある。 2016 年の「今年行った場所」で書いた唐津とセットで行ってみることをおすすめします。


  1. 去年利用したときは無料だったが、 2020 年の春から有料化されていている。料金は高め。持ち込みテントで 4,500 円、タープも別料金を取られるみたい。これでは利用する人減りそう。 https://nakazekamp.com 

  2. 松浦氏は中世の海賊・水軍松浦党の子孫。海賊が最終的には戦国大名になった。 

  3. 原爆で焼けたからではと思う人もいるかもしれないが、長崎で原爆が投下されたのは市北部の浦上のあたりで、室町時代から幕末にかけて貿易で栄えた長崎の中心部は原爆で大きな被害を受けておらず、歴史的な街並みを残そうと思えば残せたのに残さなかった、というのが長崎の実情。 

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今日は福沢諭吉の話です。

脱亜論の提唱者でありアジア侵略の思想的な後ろ盾だと考えられる福沢諭吉は、実は侵略主義者ではなかった、という趣旨の本です。福沢諭吉が侵略主義者だったかについては2001年に論争になったらしく、この論争がタネになって書かれた本です。(安川・平山論争 - Wikipedia)。

僕は小学生の頃に学校の先生から

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言ったけど自分の娘は士族としか結婚させなかったろくでもない奴

みたいな話を聞いてて、すごい悪人だろうなという感想を抱いてました。アジア侵略も福沢諭吉の思想が反映されて行われたんだろうとも漠然と信じていました。

しかし著者によると、これまでに何度か刊行されてきた『福沢諭吉全集』には福沢諭吉以外の論説が意図的に紛れ込まされており、福沢諭吉の評価がゆがめられているというのです。大変興味深い主張です。

本の要旨は、だいたい以下のような感じ。

  • 福沢諭吉は時事新報社という新聞社をやっていて、福沢諭吉全集の多くの部分は時事新報に掲載された社説。
  • しかし社説には無署名のものが多く、福沢全集には福沢以外が書いたものが含まれている可能性がある。
  • 福沢の弟子だった石河幹明という男はアジアを蔑視しており福沢は快く思っていなかったが、実子はあまり出来が良くなく他の優秀な弟子たちも実業界や政界へ羽ばたいていったため、仕方なく石河を編集主幹とした。
  • 没後、石河が福沢諭吉全集や伝記を編纂した。

要するにこの石河っていうおじさんが自分の名前で出しても世間に見向きもされないであろう(アジア蔑視的)文章を、福沢諭吉のものとして全集に紛れ込ませた、ってことらしい。晩年の福沢諭吉は脳卒中で倒れてから失語症になり、コミュニケーションが困難だったそうで、それを利用して石河はやりたい放題やったみたい。

確かに、福沢諭吉はアジア侵略主義者と言われるけど、日清戦争前は朝鮮の金玉均など独立派を熱心に援助してた。それなのにアジアを侵略しろと言うとかおかしいっちゃあおかしいんですよね。

とはいえ、無署名の侵略主義的な社説を福沢諭吉が書いていないことの証明はまさに悪魔の証明であり、確固とした証拠が提示されることなく本は終わってしまいます。

真実は神のみぞ知ると言ったところでしょうか。僕は平山さんの言ってることが概ね事実なんだろうとは思うけど、その証明は本当に難しいでしょう。

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零戦と戦艦大和という本を読んだんですけど、これがなかなか面白かったです。一見、軍国主義万歳みたいなタイトルですが、実際はなぜ日本が戦争に負けたのかを識者が座談会形式で討論しています。これがまたとない日本社会論で、『パラダイス鎖国』にも通じる内容でした。

「今日の日本は64年前の日本とは全然違う、いまの日本はあんな無謀な戦争はやらないし、軍国主義は既に過去のものだ」。多くの人がそう思っているんじゃないでしょうか。僕もそう思っていました。でも読めば読むほど、戦時中の日本軍の組織は今日の日本社会と符合する部分が多くてびっくりしました。

以下印象に残った点。

  • 戦時中、アメリカの方が戦況は優勢だったのに、アメリカ海軍は26人も指揮官を更迭した。一方で日本海軍はゼロ。敗軍の将に花道を飾らせようと据え置いたりするから、当然また負ける。末端の兵士には厳しかったかも知れないが、上層部には甘い組織だったのではないか?

  • 日本軍はカタログ偏重主義で、兵器の開発にもカタログ値が良好であることを望む。しかし本当ならセットで考えなければならない人員の配置・交代など運用方法を軽視するから、零戦や戦艦大和がどれだけ優れていても有効活用できないままに終わってしまう。大和の主砲は世界最強の威力を誇ったが一隻も敵を沈めていない。

  • 零戦の成り立ちはまるで日本のガラパゴス携帯のよう。海軍及び軍需産業は多品種少量生産が好きで、部品の標準化などを怠っていた。結果、大量生産ができず、十分な数の兵器を生産することが出来なかった。この伝統は今日の日本の家電メーカーにも脈々と受け継がれている。

  • 日本の兵器は零戦など高性能なものもあったが、使いこなすには使い手の熟練が必要だった。対してアメリカは操作が単純で新兵でも簡単に使える兵器を大量生産した。

  • 日本の軍人は武士道精神を好んだが、同じ武士道でも戦国時代に書かれた宮本武蔵の『五輪書』と江戸時代中期に書かれた『葉隠』ではまったく定義が異なり、『五輪書』では戦場でいかに敵を倒して生き延びるかが書かれているが、『葉隠』では「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」など、世襲官僚としての処世術が書かれている。後者の美意識を規範にした日本軍は人命を軽視するようになった。

  • 誤った武士道の解釈により軍人が防御機構を要望することは恥とされ、零戦の装甲は薄かった。結果多くのベテランパイロットと機体を無駄に失った。

  • アメリカ軍は『プライベートライアン』などで描かれたように行方不明者が出たときに必死に捜索するなど個々の兵士を守ろうとするが(民主主義国家の軍隊)、日本軍は兵士の人命を粗末にあつかった(独裁国家の軍隊)。これが彼我の士気の違いにつながったのではないか?

  • 日本軍は一度作戦計画を練ったらそれが完璧だと思い込み、万一作戦がうまくいかなかったときのことを考慮しない傾向にあった。戦艦大和の装甲は世界一だったが、もし装甲が破られたときにどうするか(ダメージコントロール)が不十分だった。

  • 戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と言われたため日本軍に捕虜は存在しないことになり、万一捕虜になったときにどうするかといったことが兵士に教えられなかった。結果、捕虜になって絶望的な気分になり、アメリカ側に重要な情報を話してしまった将校もいた。

などなど。憲法が変わったり主権が国民に移ったり自衛隊がシビリアンコントロールに置かれるようになったり、外側は戦前から変わったと思うけど、中身があまり変わってないような気がしますね。非常に興味深い本でした。

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去年の秋、『日本語が亡びるとき』が話題になってたときに、読んでみようかなーと本屋に行ってみたもののAmazonで人気の本が田舎の本屋に置いているはずもなく、しょうがなく代替品として買った『英語の歴史―過去から未来への物語』をようやく読み終えた。英語1500年の波瀾万丈の歴史を概説した本だ。

そもそもイギリス人って誰よ?

今日のイギリス人の源流は北ドイツやデンマークらへんに住んでいたアングル族、サクソン族、ジュート族であり、彼らの言葉が英語の元になった(民族大移動期にヨーロッパ大陸からブリテン島に移住し、先住のケルト人を追い払って国を作った)。だからもともと彼らの話していた言葉はドイツ語の方言のようなものだったんだけど、今日の英語は大きくそれとは異なり、一見すると別物だ。イギリスは古くはデーン人(バイキング)、フレンチノルマン(フランスに土着化したバイキング)の支配を受け、英語は北欧語やフランス語に強く影響された。さらにルネサンス期にはラテン語やギリシャ語、そして大航海時代には世界各地の植民地の言葉を取り入れて大きな変化を遂げた。

名字から分かるイギリスの歴史

ヨーロッパの名字には「〜〜の息子」というようなものが多いが、英語にはバリエーションが沢山ある。Anderson(アンドリューの息子)、Browing(ブラウンの息子)、Fitzgerald(ジェラルドの息子)、McDonald(ドナルドの息子)などなど。Andersonは名前の後ろに-senを付ける北欧のスタイルを取り入れたものであり、北欧の名字のAndersen(アンデルセン)に対応する。-ingを付ける方法はアングロサクソン系の元々の、名前の前にFitz-を付けるのはフランス由来、そしてMc-はケルト系の人々の風習である。このようにイギリス人の名字の種類を見てみるだけで、イギリスの大まかな歴史が想像できてしまうのだ。面白いではないですか。

洗練のラテン語と粗野な土着語

英語には頭にin-とかun-とかを付けて反対の意味になる単語があるけど(indispensableとかunfairとか)、ラテン語由来の単語にはin-を付けて、アングロサクソン系の言葉にはun-を付けるみたい。日本語の漢語と和語みたいな関係ですな。ところで僕らは気付かないけど、イギリス人は「漢語」と「和語」を使い分けることがあるみたい。例えば第二次大戦中の1940年にチャーチルが下院で行った演説。これは意識的に「漢語」たるラテン語由来の単語を避けて行われたようだ。自分たちの本来の言葉である土着語を使った方が粗野な感じがして国民を奮い立たせることが出来る、という意図があったらしい。

そもそも英語の学問用語はみんなギリシャ・ラテンに由来する借用語だ。イギリス紳士なんていうと上品なおっさんみたいな印象を持つけど、ギリシャ・ローマの文物に触れる前まではジェントルマンも所詮は野蛮人だったわけですなー。感慨深い。

シンプルになってきた英語

文法の変化も興味深い。もともと英語には男性・中性・女性と名詞に性があり、冠詞の格変化も複雑だった。しかしそれらが取っ払われて今日のようなシンプルな構成になり、代わりに以前はドイツ語のように「主語+動詞+目的語」のような並べ方でも、「目的語+動詞+主語」のような並べ方でも構わなかった語順が、冠詞の格変化が無くなったため「主語+動詞+目的語」という順番だけに制限されるようになった。個人的にはドイツ語の格変化には苦労したので英語がこういうシンプルな構成なのはありがたい。英語が今日世界中で使われているのは、文法的にシンプルなことも少なからず影響してるんじゃないかなーと感じている。もちろん、イギリスが武力で世界の覇権を握ったからってのは確実なんだけど。

hが発音されなくなるかも

発音では英語からhの音が消えるかも知れないという指摘が興味深かった。hを発音しないといえばフランス語が有名だ。ジャン・レノが映画のなかで英語を喋るときは「he」を「イー」と発音している。フランス人ってのはおかしな奴らだよなぁなんて思って見てたけど、近い将来、英語だってそんな風になるかも知れないらしい。現実にロンドンのコックニー英語ではhを発音しないし、そもそもh音というのは不安定な存在らしいのだ。hは無声の摩擦音だが、他の摩擦音は、fにはvが、th(θ)(thankとか)にはth(ð)(theとか)が、sにはzが、sh(ʃ)にはgd(ʒ)と、それぞれの無声音と対になる有声音があるのだ。しかしhにはこれに対応する有声音がない。言語というものは文法的にも発音的にも安定を求めるので、こういった不安定な状況は好まれないのだそうだ。従ってイギリス人がhistoryを「イストワール」とかheを「イー」とかhello「アロー」とか言う日が来ちゃったりして!

綴りと発音の乖離

語学の勉強をしていると、「書いてある通りに読むのがドイツ語、書いてある通りに読まないのが英語、書いてない通りに読むのがフランス語」みたいな洒落をよく聞く。フランス語に比べたらマシだけど、ドイツ語に比べたら日本人にはとても発音しづらいのが英語だ。イギリス人も綴りと発音の乖離は気にしていたらしく、両者を一致させようと試みた人達もいたらしい。しかしオーストラリアでは "I come today" を「アイカムトゥダイ!」と発音してしまうように、英語圏でも地域によって発音には差があるし、sign - signatureのように発音と綴りを一致させてしまうと、動詞形と名詞形の単語のつながりが分かりにくくなる単語だってある。これは問題だ。そういうわけで仕方なく、今日の英語の発音は綴りと乖離したままなわけ。中学生諸君はこれからも綴りと発音のズレに苦しんでくれたまえ。

ビバヒル英語がスタンダードになる日が来る?

そういえば英語には二人称youの複数形がない。これはなかなか不便だ。もともとはyou自体が二人称の複数形だったらしいのだが、これが転化して二人称単数を意味するようになった。フランス語やドイツ語では二人称の複数形を二人称単数の敬称に使ったりするんだけど、英語でもそれが起こって、二人称複数のyouを二人称単数の "thou" や "ye" の敬称として使ううちに、もともとの二人称単数であったthouやyeを使わなくなってしまったみたいだ。

それで思い出すのがビバヒルで良く使われる "guys" という呼びかけ。もともとguyは男を指す言葉で「奴」とか「野郎」みたいな意味なんだけど、カリフォーニャのナウなヤング達はyouとくっつけて使うことで二人称複数を表現してるみたい。実際、外国を旅行していてガイジンの姉ちゃんに「Hi, guys」と言われたときは「本当に使うんだ!」と思ってびっくらこいたけど、guysかアメリカ南部英語の "y'all"(you all)、あるいは英連邦で広く使われる "youse" が二人称複数形として正式に組み込まれる可能性だってあるらしい。h音のとこでも書いたけど、言語は安定を求めるから、二人称だけ複数形がないのを嫌がるだろうってことですね。

後半はいまいちだった

ここら辺までは非常に興味深く読むことが出来たんだけど、後半はコンピューターやインターネットで英語が拡張されつつあるとか、女性や黒人、障害者を差別するニュアンスの言葉が言い換えられているというような時事的な話題が主で、正直面白くはなかった。何か間に合わせの印象さえあって。

しかし前半は十分に知的好奇心を刺激する内容で、なかなかわくわくしながら読み進めることが出来た。個人的には大母音推移(Great Vowel Shift)の理由が説明されてないのがスッキリしなかったが、Googleで検索したところ、Great Vowel Shiftについては英米人も「理由は分からない」と言ってるいるようなので、これはまぁ仕方なし。

受験生は受験が終わって英語を忘れないうちに読んでみるといろいろ楽しいかもね!

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日本軍の自転車

 シンガポール国立博物館で興味深かったのが、戦争についてのコーナーです。日本は戦時中シンガポールを占領しました。そのとき大陸の国民党軍に資金援助していることが疑われる華人を虐殺したりしたのですが、国立博物館の展示内容は韓国の独立記念館などと違って非常に中立的です。

 例えばシンガポール攻略作戦を指揮した山下将軍についての解説では、インド系シンガポール人の学者が、「山下がイギリス軍を降伏させたことの意義は大きく、第二次大戦後のアジア各国の独立に大きな影響を与えた」と述べていました。英軍があっさり降伏してしまったことで、いざとなったら英軍は頼りにならない、シンガポールは自分達で守るしかないと、独立を志すようになったという趣旨のリー・クアンユーの発言が、セントーサ島のシソロ砦の展示で紹介してありました。

 もちろん、日本人観光客を集めるという意図もあるのでしょうが、戦時中の日本側の史料も豊富に展示してあり、多角的な視点で展示が行われています。見ごたえ十分です。

 からゆきさんの記事でも書きましたが、日本とシンガポールの意外に深い関係を知ることができ、日本の歴史を学び直すこともできます。