| @技術/プログラミング

このブログの Archive ページ自分で作った Lokka Plugin でできているのだけど、ここを React を使って作ってみた。 React チュートリアルの写経の題材を自分のブログにした感じ。 CoffeeScript オワコンと言われて久しいけど Coffee で書いた。 JSX を CoffeeScript で書くときはバッククオートで囲むとよいという知見が得られた。

Entry = React.createClass
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    )`

| @旅行/散歩

Dubrovnik

2015年6月23日

クロアチア航空のチェックインカウンターでチェックインを済ませ、パスポートコントロールを経て飛行機に乗った。 EU 内の移動は通関的なものがないので非常に移動がスムーズ。まるで国内線に乗り込むかのような感覚だった。

Croatia Airlines

飛行機は小型のもので、乗客はまばらであった。クロアチア航空は機内で配られる紙ナプキンが深紅でしゃれており、スッチーたちも感じが良く、エーゲ航空に比べて最高という感じしかなかった。飲み物はビールをもらったけど、 PAN というクロアチアのビールでとてもうまかった。

Dubrovnik Airport

一時間半ほどでドゥブロヴニク空港に到着した。ドゥブロヴニク空港には迎えのハイヤーをお願いしてあった。空港はきれいで、迎えに来てくれていたドライバー氏は長身できちんとネクタイを締めていた。すべてがテキトーなギリシャとは全然違う。非常にかちっとしていた。ハイヤーはきちんと洗車されているベンツで、一世代前のものではあるが E クラスだった。ギリシャで現行 E クラスのタクシーに乗ったけど、おっさんの運転は雑だったし、車内は自家用車のように雑然としていて、クロアチアで乗ったハイヤーの方が断然快適だった。

クロアチアはあちこちに花が咲き乱れ、道路はきちんと舗装されており、街並みも整然としており、すべてがごちゃごちゃでゴミが散乱しているギリシャとは大違いだった。やっとヨーロッパの国にやって来た、という感覚があった。古代ギリシャ文明はギリシャでは継承されておらず、ギリシャ以外のヨーロッパ各国で継承されているのかなという感じがした。

Dubrovnik view

ただドゥブロヴニクも森といえるような森林は存在せず、山は少し地肌が見えていていわゆるはげ山状態だった。降水量が少ないんだろうなぁ、と思った。

宿は旧市街から 1.5km ほど離れたヨットハーバー沿いにあるアパートメントだった。かつてチェコを旅行したとき、アパートメントに泊まって最高だったのでアパートメントにしてみたのだが、この選択は正解だった。非常に広くて景色が良く、シャワーのお湯の量に限りがあることを除けば快適そのものだった。

Adriatic Deluxe Apartments

Adriatic Deluxe Apartments

宿にチェックインしたのが 20 時過ぎだったので、旧市街に行くのはあきらめて宿の近くで日用品の買い物を済ませたあと食事をすることにした。この時点でクロアチアの通貨のクーナを持っていなかったが、スーパーでもレストランでもカードで支払いができたので問題がなかった。10 年前に訪れたチェコでもそうだったが、 EU に加入しているものの通貨をユーロに移行していなくてもユーロで支払えるところが多い。クロアチアもそんな感じで、 7HRK = €1 というレートで買い物することができる。

Supermarket

VW Golf 2, Golf 1, Golf 3 (Left to right)

一日目に訪れたのは宿の近くにあった taverna Otto というレストランだったが、あとから調べるに tripadvisor でドゥブロヴニクのレストランで 6 位の店だった。クロアチアはマグロをよく食べる国だそうで、ツナとポーチドエッグのサラダを注文したら、表面を軽く火で炙った状態のマグロのタタキを使ったサラダが出てきた。シーチキンのようなものを想像していたので期待と違ったが、久々に口にする生のマグロが非常においしく感じられた。

ツナのサラダの写真は取り忘れてて、これは嫁さんが食べてた子牛のステーキだけど、ドゥブロヴニクあたりの料理は何でも炭火焼きして BBQ するのが一般的らしい。野菜も炭火焼きしてあって香ばしい香りがしておいしかった。

Taverna Otto

食事を終えて宿の前のヨットハーバーの公園を散歩すると、ユーゴスラヴィアからの独立戦争時に活躍したと思われる戦車や、迷彩塗装を施された軍用ボートが飾ってあった。ドゥブロヴニクは世界遺産であるにもかかわらず、独立戦争時にはユーゴスラヴィア連邦軍から砲撃を受け旧市街や城壁が破壊されてしまった。その戦争に勝利しての独立だったので、街の人々はこの独立に誇りを持っているんだろうなぁと感じた。

宿に戻って美しい港の夜景を眺めがら眠りについた。

2015年6月24日

Harbor View

ミコノス島で買ったパンなどで食事を済ませた。この日は嫁さんの体調が優れず、出かけるのが昼頃になってしまった。

まずは両替しないとバスに乗ることができないので、宿近くの銀行に入って両替を頼んだ。昨夜のハイヤーのドライバーによると、両替は銀行で行うのが一番レートが良く、手数料が必要ないとのことだった。銀行の窓口で両替を頼むと、確かにネットで出てくるのに近いレート( 1HRK = ¥18 )で両替できた。本当は両替にはパスポートが必要らしいが、宿のセキュリティボックスに忘れてしまっていた。しかし窓口の女性は融通の利く人で、次は忘れないでくれと言って両替してくれた。またクロアチア最高だと思った。

両替してからバスに乗って旧市街へ出かけた。旧市街へはバスで 5 分ほどで、アドリア海の景色を眺めながら向かうことができた。

Pile Gate

旧市街のピレ門に着くと観光客でごった返しており、街は賑わっていた。とりあえず門の中に入り街を軽く見て回り、 Kindle で買った Dubrovnik ガイドの本で著者のお気に入りの店であるというところに行ってみた。すると日本人の先客があり、メニューに日本語もある。なんと地球の歩き方にのっていた。旅先で日本人と出会うと微妙な気分になるのでなるべく普通の日本人客がいないような場所で食事するのが好きなのだが(だから Kindle で英語のガイド本を買って読んだりしてた)、同じ店が地球の歩き方で紹介されているとは盲点だった。

ドゥブロヴニクは滞在時間が短かったので昼もいいのを食べようという方針で嫁さんと二人でお互い好きなものを頼んだので、会計は 530HRK ほどになり、昼なのに 1 万円近くになってしまった。ただこの店で食べた三種のチーズと生ハムは最高にうまくて、良い思い出になった。

DSC_8608.jpeg DSC_8609.jpeg DSC_8610.jpeg DSC_8611.jpeg

この店で食事している間に、本当にここはヨーロッパかと思えるような激しい雨が降り始めた。日本のゲリラ豪雨のような雨だった。しかもドゥブロヴニクは断崖の縁にある街で、山の方に降った雨が一気に流れ込んでくる。レストランの外席は建物と建物の間の通路にある席で、雨が降るとこの通路を雨水が川のように流れていく。雨が上がるまで身動きすることができず、 1 時間半くらいこの店にいて雨が止むのを待った。

雨が上がってからは城壁に上がろうと入り口を探して旧市街をさまよったがどこにも入り口がない。同じように他の観光客の人々も入り口を探しているようだった。地図を見ているところを地元の人に声をかけられ、城壁に上るには入場料が必要なこと、入り口は二箇所と限られていることを教えてもらった。確かに地球の歩き方にもそのように書いてあった。大人一人 100HRK ほど払って城壁に入ることにした。一人 1800 円は高いとは感じたが、これに上らなかったらドゥブロヴニクに来た意味皆無なので金のことは考えずに上った。

城壁からの眺めは確かに最高で、アドリア海の真っ青な海と、ドゥブロヴニクのオレンジ屋根の街並みをこれでもかというほど堪能した。ドゥブロヴニクも暑いには暑かったが、ギリシャに比べれば湿度も適度にあり十分に過ごしやすかった。

城壁を一周するときにベビーカーを持って回ったのがつらかった。可能なら入り口で預かってもらいたかった。海外旅行にベビーカーを持って行くべきかどうかはかなり悩んだが、息子殿は抱っこひもで抱えるには大きすぎるほどに生育しており、ベビーカーで運搬するより他なかった。ただサントリーニなど足場の悪いところではかなり足かせになった。

城壁を一周するとへとへとに疲れ果てていたので、一旦宿に戻って休憩することにした。

宿のアパートメントには大きなテラスがあり、ジャクジーがあったのでジャクジーに浸かることにした。しかし日暮れ時のドゥブロヴニクにはすでに肌寒く、ジャクジーの温度がなかなか上がらずあまり楽しむことができなかった。

ジャクジーから出たあとはまた taverna Otto に行った。 tripadvisor ランキング一位の店に行けないかと予約を試みたが、今日と明日は満席でいっぱいと断られてしまった。つくづく滞在時間が短かったことが悔やまれる。

taverna Otto ではメニューにないのに息子殿用にポーチドエッグのみを出してくれと頼んだりして常連ぶるなどした。会計のときになって店主がやって来て、二日連続来てくれてありがとうと話をした。我々が日本人であることを告げると店主は興奮し始め、 3 月に日本を旅行したがサイコーだった、また行きたい、神戸牛食いたい、牛丼うまかった、築地サイコーだった、築地で買った魚介類をタイのホテルの冷蔵庫に忘れてきたことが悔やまれる、あdsふぁdsふぁdfjかlsdflぴおいれ、という話を延々聞かされた。母国ではない英語で良くもこうぺらぺら喋れるものだなぁと感心した。

我々と話すときはクロアチア人同士でも英語で話したりするし、クロアチアはかなり英語教育に熱心なのかも知れない。そういえばチェコのプラハの人々も英語が流ちょうだったことを思い出した。今回泊まったアパートメントのレセプションの女性たちもネイティブのように英語を流ちょうに話し、ギリシャ人よりも格段に英語でコミュニケーションをとりやすかった。

レストランを出てホテルに戻り、ヨットハーバーから最後の夜景を眺めて眠りに就いた。ドゥブロヴニクの Gruž の港は長崎の港に景色が似ていて親近感がわいた。

2015年6月25日

前日夕方に買ったロシア風のパンとコーヒーで朝食をとった。ドゥブロヴニクにはヴェネツィアの領地であった歴史があるのでイタリアの影響が強いのか、コーヒーはエスプレッソが主力のようだった。宿に備えてあるコーヒーを入れる器具は直火式のエスプレッソマシンしかなく、これでコーヒーを入れて飲んだ。クロアチアのスーパーで買ったミルクと割ってカフェラテにして飲んだけど、ミルクがすごく甘くておいしかった。ヨーロッパはどこも乳製品のクオリティが高い。適当な店で飲み食いしてもチーズやバターだけはまずいものにあたることがない。

チェックアウトして荷物を預かってもらい、再度旧市街へ向かった。土産物を買ったあとは、前日には乗ることができなかったケーブルカーに乗って Srđ 山に上り、街を見下ろした。ここには戦争博物館もあって余裕があれば見に行きたかったが、飛行機の時間が迫っていたので適当に写真だけ撮って降りることにした。山頂でニコンの一眼レフを持っていたアメリカ人のおっさんに写真を撮ってくれるよう頼んだら、水平もとれておらず残念な写真になってしまった。とほほ。

飛行機の時間が迫っていたため、山から下ったあとは急いで食事をした。なかなか店が決まらず、イタリア風の食事を出すピザ屋に入って食事をした。ヨーロッパはカプレーゼが安くて巨大なモッツァレラチーズが出てくるのが良い。

食事を済ませて急いで宿に戻り、荷物を受け取ってバス停に向かった。宿の最寄りバス停は旧市街行きのバスも空港行きのバスも止まるという非常に便利なバス停だったが、空港行きのバスがなかなかやってこずかなり不安になった。あと 5 分待って来なかったらタクシーに乗ろう、と思ったところでバスがやって来て何とか飛行機に間に合う時間で空港にたどり着くことができそうだった。運転手は親切で、ユーロしか持っていないが大丈夫か、と聞いても「 No problem 」と言ってくれてクロアチア最高だった。

ただこのバスの中で安堵のあまり眠ってしまったのが良くなかった。バスを降りるときに iPhone を車内に忘れてしまった。気がついたときにはもうバスは発車しており、しかもアテネに戻る飛行機の時間が迫っていたためバス会社に問い合わせることもできず、後ろ髪をひかれながらドゥブロヴニクを去ることになった。幸い iPhone にはパスコードロックをかけていたので悪用されることはないと思われるが、その後辞書代わりにも使っていた iPhone がなくなることは不便きわまりなかった。 foursquare でチェックインすることもできず、旅行の楽しみの半分くらいが吹っ飛んでしまった。

| @旅行/散歩

パルテノン神殿

2015年6月22日

振り替え便は 8:10 と聞いていたので 6 時に起きて飛行機に乗る準備をした。 7 時前にチェックアウトして空港に向かうと、昨日見た顔の人たちが何人かいた。タクシー代の精算を済ませ、搭乗手続きをして飛行機に乗ると、エーゲ航空のスッチーたちは何事もなかったかのようなにこやかな表情を浮かべていた。

アテネには一時間足らずで着いた。なんとこの日は天気が悪く、アテネ到着時は雨が降っていた。

アテネ到着

前日にアテネの宿を手配できなかったため空港に着いてから空港の無料 WiFi を使って予約しようとしたが、アテネ空港の WiFi は 60 分間しか無料で使えず、結局空港のパソコンを使って予約した。

アテネ空港はギリシャ到着時に食事したときにめちゃくちゃ高くてどうしたもんかと思っていたが、空港の外に出て空港職員等で混雑するサンドイッチスタンドに入ると、 €2.5 で食べ物が買えた。ここでコーヒーを飲みながらほっと一息つくことができた。

その後メトロでアテネの街中へと向かう。アテネ空港は成田と同じで、名前こそアテネだけど全然アテネじゃない場所にある。電車で 40 分くらいかかった気がする。

Athens city view from Acropoli

アテネの市街についてまずびっくりしたのが、街並みのヨーロッパっぽくなさだった。道が広くて路上駐車の車がたくさんあるのはヨーロッパっぽいんだけど、道路の舗装は適当でゴミや動物の糞が散乱しており、マンションのすべての側面には汚らしいバルコニーがくっついていて植物やらなんやらをみんな好き放題外に出しており、非常に猥雑だった。ヨーロッパというより東南アジアにでも来たような景観だった。

Athens

またアテネはサントリーニ島やミコノス島に比べて圧倒的に緑が多く、湿度も幾分か高いようだった。普段は 6 月に雨が降ることはなく異常気象だと泊まった宿の主人は話していたが、モンスーン気候に慣れた身からすると、乾燥の激しいサントリーニ島やミコノス島は過ごしにくく、雨降りのアテネはとても過ごしやすく感じられた。

Athens

アテネの宿はアクロポリスなどといった主な観光地にも歩いて行ける場所にあるものを選んだ。 €107 だったが安くても一泊 €200 オーバーだったサントリーニ島からすると別天地という感じだった。部屋は広く風呂は豪華で、たっぷりと暖かいお湯のシャワーを浴びることができた。

宿にはチェックイン時刻よりも早く着いたので、荷物を置いて観光へ出かけた。レストランに入ってメニューを見るとサントリーニやミコノスの観光地レストランの値段に比べるとずいぶん安い。しかもハンバーガーを頼んだらパンが一枚でハンバーグが二枚のやつが出てきた。ギリシャ人、こんな経済観念だから経済崩壊するのでは、と思いつつ、アテネサイコーと叫びながら子牛のハンバーグを食べた。

パン一枚に肉二枚

食事のあとは街をうろつき、最初携帯の SIM を買った ΓΕΡΜΑΝΟΣ を見つけたのでプリペイド SIM のチャージができるかどうか聞いてみた。サントリーニ島のショップでは、追加チャージはできるが翌月にならないとできない、という説明を受けていた。しかしキャリアの COSMOTE のウェブサイトを見てもどこにもそのような記述はなく、おかしいなぁと思っていたのだった。 €6 で 500MB のチャージを頼み、携帯を出すように言われたので Pocket WiFi を出すと、「その端末ではこの SIM カードを使うことができない」と言われて一瞬雲行きが怪しくなったが、自分たちが持っている iPhone は SIM ロックがかかっていて Pocket WiFi 経由でないとインターネットに接続することができないことを説明すると「OK」と言って追加作業をやってくれ、再びインターネットにアクセスできるようになった。

その後街を散策し、子どもが喜びそうな蒸気機関車型の観光バスを見かけたので乗ってみることにした。大人一人 €5 で、アクロポリス周辺の主立った観光地を周遊でき便利だった。乗り降り自由らしいので乗り降りしてプラカ地区やシンタグマ広場に行ったりすることもできる。我々はその勝手を知らずに漫然と一周してしまってもったいなかった。

アクロポリス バスから見たアゴラ

バスに乗ったあとにパルテノン神殿に上ってみたが、正直なところ圧巻だった。今回の旅行ではアテネはスルーする予定だったがエーゲ航空がキャンセルになったせいでアクロポリスを訪れることができたのはある意味幸運だったかも知れない。

パルテノン神殿

パルテノン神殿を観光していて初めて知ったのだが、パルテノン神殿は風化であのように朽ちているのではなく、 17 世紀にヴェネツィアによる砲撃を受けてあのようになった、とのことだった。当時でもすでに 2000 年以上の歴史を経ていたパルテノン神殿を破壊するなんて罰当たりなことだと思ったが、 Wikipedia によると、当時ギリシャを支配していたオスマントルコは、ヴェネツィアもパルテノン神殿の歴史的価値に敬意を表して砲撃すまいと高をくくって女子どもを避難させ、アクロポリス内に弾薬庫を作って弾薬を貯蔵していたのだそう。しかしヴェネツィアは一切斟酌せずパルテノン神殿に砲撃を浴びせたらしい。

修復中のパルテノン神殿

そのような状況になったパルテノン神殿を修復しようという動きはギリシャ独立後の 19 世紀中頃からあって様々手を加えられているが、 1800 年代後半から戦前にかけての修復は、古代の手法を忠実に再現するのではなく、鉄を使って無理矢理修復するという手法で、そのせいでかえって他の部分に負荷がかかり、現在は 19 世紀から 20 世紀前半にかけて行われた誤った手法の修復で傷んだ箇所を正しい手法で直しているところなのだそう。

修復されたパルテノン神殿

そういえば順調に行けば今頃訪れていたはずのドゥブロヴニクも、一時はヴェネツィアによって支配され、イタリア文化を受容しているのであった。ヴェネツィアとは地中海沿岸でやりたい放題やってたんだなぁ。

パルテノン神殿をゆっくり時間をかけて観光したあとは、一旦宿に戻ってシャワーを浴びて休憩した。三人とも何を食べてもトマトとオリーブオイルとハーブの入っている地中海風の料理に飽きていて、汁付きの麺類が食べたいと、アジア料理の店を探してアテネ一番の繁華街のシンタグマ広場へと向かった。

遅い時間にわざわざやってきたのに嫁さんが目をつけていたアジア料理屋は看板を掲げておらず、あるはずの場所には別の中華屋があって営業していた。店の前でひとしきり夫婦げんかをしたあと、あきらめてこの店に入って中華料理を食べることにした。

この中華屋が正解で、酢豚もチャーハンも中華麺もどれもうまかった。変な香辛料は入っていないし唐辛子辛くもなく、日本人にとって非常に食べやすい味付けだった。青島ビールを三本飲んでも会計は €30 程度で、一食で €70 ほどかかっていたサントリーニ島と大違いだった。しかも店の女将の中国人が非常に親切で店も清潔で、まるで日本に帰ってきたかのようだった。

中華屋の麺

食事を追えて最終一つ前の地下鉄で宿に戻り、倒れ込むように眠りについた。

2015年6月23日

翌朝は宿を出る際に領収書の宛名書きの件で嫁さんが宿のレセプションともめて、そのせいで夫婦げんかをしてしまった。一旦別行動をとることにしたのだけど、一人でアクロポリスのベンチに腰掛けているとなんかいろいろどうでも良くなってしまって、嫁さんから届いていたメールを読んで昨晩食事をした中華屋のあるシンタグマ広場で合流することにした。

昨晩 0 時近くまでいた中華屋には同じ面々がいて店を営業していた。この人たちはよく働くなぁと感心しながら店に入って食事を注文した。ギリシャ人は働かないと日本のマスコミでは言われるけど、アテネのこの中華屋の人たちも、サントリーニ島のホテルの人たちも、朝早くから夜遅くまでとてもよく働いていた。実は EU の中でギリシャ人の労働時間は結構長い方だという記事もある。新聞やテレビで見るのと実際に訪れてみるのではずいぶん事情が異なるなぁという思いを強くした。

昨夜の店内には現地のギリシャ人の客しかいなかったが、この日の店内には中国人だらけだった。

中国人の観光客はギリシャにいっぱいいたが、不思議なことに彼らは昼間はそこかしこにいるのに、夜になると潮が引いたかのようにさっと姿を消す。それは見事なものだった。夜の街を出歩いて中国人の姿を見かけることはないし、盛り場に行っても夜に中国人の姿を認めることはできない。

ミコノス島で二日連続通ったレストランの面白ウェイター氏によると、中国人はあまり良い旅行をしていないそうで、一泊ずつ街を転々とするのだそう。ひょっとしたら毎朝早い時間に宿を出て次の街に向かわなければならないから彼らは夜の街に姿を見せないのかも知れない。

プラカ地区

食事のあとはシンタグマからプラカ地区の土産物屋を冷やかしたりしながら宿のある方向に向かって歩いた。途中土産物を買うため嫁さんとアクロポリスのあたりで別れ、自分は一人で宿まで預かってもらっていた荷物を受け取りに行った。

プラカ地区

地下鉄駅で嫁さんと合流して、再びアテネ空港に戻り、自分が行ってみたかったクロアチアのドゥブロヴニクに向かった。待ちに待ったときが来た、という感じだった。

| @旅行/散歩

Little Venice

2015年6月19日

Santorini to Mykonos

サントリーニ島からミコノス島への移動は3時間程度だった。乗船したのは Hellenic Seaways の Highspeed 4 という船で、高速フェリーのためデッキに出て外を眺めることができなかったが、船内は広く、売店もあり、エコノミークラスでも客席は足下が広々しており快適そのものだった。アテネ−サントリーニ間をフェリーで移動するのは時間がかかるので時間に余裕のあるバックパッカーとかでないと難しいかもしれないが、ミコノス−アテネ間であればちょうど良いと感じた。

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| @旅行/散歩

フィラの景色

2015年6月15日

14 日夜 8 時に福岡を出発して羽田でカタール航空のアテネ行きに乗る。カタールで乗り換えてアテネに 15 日の昼に到着した。

アテネに着いてまずは現金を引き出そうと ATM に新生銀行の PLUS マーク付きカードを入れてみるが、引き出すことができない。 10 年前にヨーロッパを旅行したときは新生銀行のカードでドイツでもチェコでも、円預金を現地通貨で引き出すことができた。同じようにして現金を引き出そうと思い、 ATM にカードを入れるが、事前にインターネットバンキングかなにかで手続きを行っていないと、海外 ATM での引き出しができないようだった。そういえば一時期新生銀行のカードをスキミングして海外で不正に引き出すという犯罪が横行したので、何も設定してない場合は海外での引き出しができないようなルールに変わったのかも知れない。日本では羽田の三井住友銀行の両替所で €60 両替しただけだったのでユーロを現金でほとんど持っておらず、またギリシャの両替レートは日本で €1 = ¥141 だったものが €1 = ¥151 もして最悪のレートで、到着するや否や空港の到着ロビーで派手に夫婦げんかをした。

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| @散財

5月末に家を建てて半年ほど住んで得られた知見を共有します。

2014-05 清貧会館 / Holy poverty Insutitute May, 2014

家を建てた理由

子どもが生まれた

最初は賃貸で引っ越そうとしてた

  • 子育てには車が必要だから
    • 西松屋(車でしか行けないような所にしかない)に行きたかった
    • おむつやミルク缶やベビーカーは車じゃないと運べない
  • 駐車場の安い郊外に引っ越して車買おうとしてた(当時住んでた所は駐車場代高かった)
    • 結局引越費用高くてやめた(40万くらいした)

中古マンションでも探すことにした

  • 中古マンション探すけど良いのは高かった
    中古なのに新築分譲時より高いのとかある

それなら新築マンションでよいのでは、と思った

  • しかし新築マンションは業者が好きになれなかった
    • 偉そう
    • 息がくさい
    • すぐローンの審査申し込ませようとする
    • 考える時間を与えずハンコ押させようとする
  • 買いたいタイミングでよい物件が出回ってなかった
  • マンションは管理費や修繕積立金、駐車場代が重荷になりそうだった
    ローン完済しているのに駐車場代と修繕積立金と管理費合計で毎月4万とか払うの嫌だった
  • 子どもの実家がマンションになるのが想像できなかった
    自分が田舎育ちのため

中古の一戸建て考えるようになった

  • 中古の一戸建てのリノベーションを建築家に相談したら土地買って家建てるのとかかるお金あんまり変わらないと言われた
    土地買って家を新築することにした

土地を買う際に得られた知見

土地の申し込みは同時に何人かが申し込んでいる可能性がある

  • 早くローンの申し込み・審査を済ませないと他の人に買われてしまう可能性ある

基本的に不動産屋は信用できない

  • 腹黒い

よい土地を見つけたら建物を含めた総予算を出さないといけない

  • 土地を決めてからゆっくりプランを練るとかできない
    • 土地を買うときに家全体の総予算を決めていないといけない
      土地を買うタイミングで建設会社も決めてだいたいのプランを固めておく必要がある
    • いつか家を建てたいと思っている人は、「まだ土地もないし家のこと調べるにはまだ早い」などと考えずに具体的な予定はなくても建築雑誌とか本とか読んどいた方がいい
      自分は家を建ててから中村好文さんの本を何冊か読んでとても後悔した。

土地の選び方はとても重要

  • 土地は 土地を買ったことがある人に相談 してから買うのがよい
  • どこのメーカーで建てるかよりもどこにどんな土地を買うかが重要
    • 建物は住んでるうちに価値が減っていく
    • 土地は基本的に価値が落ちない 不動産資産 = 土地の値段 (家は無価値と考えた方がよい)

よい土地の条件

  • 土地のかたち
    • 正方形か長方形がよい
    • 三角や台形はだめ
  • 土地が面している道路の道幅
    • 広い道路に面していると土地が狭くても車出し入れしやすい。道幅 6m 以上の道路(車がすれ違える)がよい
    • 道幅が広いと日当たりがよくなる
  • 道路が公道に面しているか
    • 私道にしか面していない土地は家が建てられないことがある
  • 道路に何メートル接しているか
    • 長く面しているほどよい
  • 道路と土地に段差がないか
    • 隣地よりも土地が低いと日当たりが悪くなる
  • 日当たり、方角
    • 東南角地が一番日当たりよい

中心街まで何分とか駅から徒歩何分とかばかりに目が行きがちだけど、車の出し入れのしやすさが土地の価値になる。土地のかたちがいびつだったり、道路と変な角度で接していたり、接している長さが短かったり、接している道路の道幅が狭かったりすると車の出し入れがしにくい。また面している道路は公道であることが望ましい。接している道路が 私道や持ち分共有の私道だと権利関係が複雑で揉める ことがある(揉めた)。

住宅ローンを組む際に得られた知見

地銀か都銀かネット銀行か

  • 地銀の方が申し込みや審査は早い(対面でやりとり)
  • 金利はネット銀行の方が安い(対面でやりとりできないから多分時間はかかる)
  • 都銀は地銀より金利安いけどネット銀行よりは高く、審査は地銀の方が早い

変動金利か固定金利か

  • 繰り上げ返済をじゃんじゃんするつもりの人は変動金利がよい
  • 基本的に固定金利(フラット35)は変動で組めない(銀行の審査だめだった)人向け
  • バブルのときでも金利は4%くらいだったらしいので金利が10%とかになることは(日本国債が暴落しない限り)ない
  • 変動と固定ミックスでローン組める銀行もある

持ち金全部突っ込まない

  • 住宅ローン金利は異常に安い金利で金を借りられる制度なので、手持ちの資金を極限までつぎ込むより少し多めに借りて手持ち資金を残すのが賢い

上場企業に勤めてるときに組むと審査通りやすい

  • 前勤めてたブラック企業だと収入はちゃんとあったとしても審査通らなかったかもしれない(会社が無名だから)
  • 上場企業だと金利優遇とかがあったりする
    • 東証一部上場の会社だったらさらにもっと金利優遇されたりするのかもしれない

家を建てる際に得られた知見

  • 総予算から土地の値段と引っ越し代や家具代を引いた分しか家には当てられない
  • 家の建設費と別に外構工事費がかかる
    • 家に残り予算全額つぎ込むと工事現場みたいなどろどろの土地に暮らさないといけなくなる
  • 金に余裕があるなら建築家に設計してもらうといい
    • 建築家はいろいろ考えてる
    • 例えば二階のベランダと床に段差を作らないようにするのは木造建築では難しい。建築家だと何とかしてそういうのを実現してくれる。
    • 建築家入らないと住設メーカー(リクシルとか)のカタログハウスみたいになってしまって味気ない
    • 延べ床面積はそんなに広くないけど暮らしやすい間取りみたいなのを考えてくれる
    • 依頼主がよく分かってないニーズを、依頼主の家族構成、趣味、仕事内容をヒアリングすることで引き出してくれる
    • 建築家に頼まず地場の工務店に自分たちが注文したとおりの家を建ててもらったけど何となくしっくりこない
    • 無駄に空きスペースがある
    • 要望通りになってはいるが所詮素人の要望なのでプロに考えてもらった方が良かったのかもしれない

とは言え最近の家はよい

  • 断熱性高い
    • 床暖房もソーラー温熱システムもついてないが居間のエアコン稼働すると家中暖かくなる
    • 24時間換気システム(最近の家はつけないといけないらしい)のおかげで家中の空気が循環していて一部屋だけ寒いとかがない
    • 最近の家はペアガラスがデフォルトなので窓際にいても寒くない
    • 前の賃貸マンションは窓際が寒くて死にそうだった
  • 台所が広いのがよい
    • 料理する気になる
    • でかい冷蔵庫が買える

家を建てて後悔している・心配な点

2階建ては狭い

  • 延べ床面積 100m2 とかあってもマンションの 100m2 とは違う
    • 階段部分の面積も延べ床面積に含まれる
    • ワンフロアで 100m2 あるのと 50m2 が上下に連なっているのでは感覚的な広さが全然違う

手放しづらそう

  • 給料減って住宅ローン払えなくなったときすぐ売れないかもしれない
    • 中古の木造建築はなかなか売れない
    • マンションは比較的すぐ売れる
  • 売っても高く売れないかもしれない
    • 木造建築を売るときは無価値と考える必要がある
    • マンションはそこそこ古くても場所さえよければよい値段で売れる

台風や地震や空き巣が心配

  • マンションなら台風や地震には勝てそうだし、オートロックなので空き巣も一戸建てほどは心配しなくてよさそう。一戸建ては帰省や旅行をする度心配になる
  • 修繕積立金を徴収されない代わりに何かあったら自分で捻出しないといけない

固定資産税高い

  • 想定外だった

町内会

  • 町内会費高い
    町内会費高すぎて嫁さんは町内会脱退するとか言ってる(できるのか)
  • 町内会の清掃活動とかに出ないといけない
    めんどい

家を建てて(郊外に引っ越して)よかった点

  • アホみたいに高い駐車場代払わなくてよい
    • 立体駐車場じゃなくなったので好きなときに車出せる
  • 庭があるので夏はバーベキュー出来る
    • スーパーで買った激安ブラジル産鶏肉も炭火で焼くと涙が出るくらいうまい。生きててよかったと思える。
  • 郊外に引っ越したので驚くほど静か
    • 地域の祭りとかあったりして和む
    • 近所付き合い面倒だけど野菜もらえたりもして便利
    • 常にどぶっぽい臭いしてた都会の空気吸わなくてよくなった

いつかはかっこいい家を建てたいと思ってる人には上にも書いたけど建築家の中村好文さんの本をおすすめします。

| @労働

この記事は 闇アドベントカレンダー、 22 日目の記事です。何書こうか迷って担当日に書けなかったので三日ほど遅れてしまったけど書きます。


2011 年の 10 月から FANIC という音楽配信サービスの開発に携わっていたのだけど、サービスを成長させることができず、 2013 年の 8 月にサービス終了した。

サービスが死ぬのは技術者がクソだということだけではないと思う。市場とか外部環境に左右されるし、企画とか売り方がダメなことの方が多いと思う。しかし現実に自分はプログラマーとして FANIC というサービスの死に荷担してしまった。弔いになるか分からないけど、 FANIC で何がよくて何が良くなかったのかを書いてみたいと思う。

FANIC とは

FANIC は主にアマチュアのミュージシャンをターゲットにしたホームページ作成&音楽販売サービスで、アーティストは自分の公式ホームページを簡単に作ることができ、楽曲をアップロードして試聴公開したり、リスナーに販売することが出来た。月額利用料は 315 円で、曲が売れたときに手数料 15.75 % が従量課金される仕組みだった。 2012 年の 1 月に公開して、 2013 年の 8 月 31 日にサービス終了した。

FANIC に携わることになった経緯

ペ社に入社したのは 2 年前の 10 月だった。前の職場がどうしようもないブラック企業だったことは前に書いた。

会社の開発環境が地獄のレガシー環境だったので面談で社長に Subversion やめて Git 使いたいと言ったら、「会社が気に入らないならさっさと辞めろ」と言われたので、何とか反省して心を入れ替えたふりをしながら職探しをしていたところ、 Rails 、 Node.js 、 Redis 、 MongoDB 、 Nginx 、 AWS みたいな福岡の求人にしては珍しくナウいキーワードで募集していたのがペ社の Dazaifu Project だった。

プロジェクトの紹介ページが何となく面白そうだったのと Rails で仕事できそうだったので応募した。小さなチーム、大きな仕事を読んだり、RubyKaigi 2010 に行ったこともあって、DHH や RubyKaigi で登壇していた人達みたいにとにかく Ruby で仕事したいという思いが強かった。前の職場でも Ruby を使いたかったけど ColdFusion や Flex など旬を終えたプロプライエタリなテクノロジーばかりを触らないといけなくてとにかくつらく、わらをもすがる思いで求人応募フォームを送信した。

8 月に応募して 9 月に内定が出て 1 ヶ月後にペ社に入社した。入社するまで配属先を知らなかったんだけど、 Dazaifu Project の物販系と音楽系の二つのサービスのうち音楽系の方に配属されることになった。それが FANIC だった。

FANIC で良かったこと

一つのプロジェクトに集中できる

受託の会社とかだと受託案件があって、案件ごとにメンバーがアサインされるから同時並行的に二つか三つを掛け持ちで担当するということがあるけど、自社サービスの会社では基本的に一つのサービス(案件)にかかりっきりで仕事をすることができた。これがとても良かった。午前中に A 社の対応をして午後から B 社、夕方からまた A 社のタスクに取りかかって 20 時から終電まで C 社対応、みたいな複数の仕事の切り換えがない。タスクの切り換えにはオーバーヘッドが発生するから、一つのことにかかりきりになれる自社サービスの仕事はとてもやりやすかった。加えてプログラミング言語はずっとやりたいと希望していた Ruby だったので言うことなしだった。会社に行くのが楽しかった。

ナウでヤングなアーキテクチャー

求人に上に書いたようなナウいキーワードを混ぜていたのは先輩の @linyows さんで、FANIC はインフラは AWS を利用し、データベースに MongoDB 、音楽や画像は S3 に保存して、WAV や AIFF でアップロードされた音楽ファイルを試聴用の MP3 に変換するバッチ処理や、画像を S3 から取り出すリアルタイムリサイズサーバーは Node.js で実装してあった。フロントエンドのアプリケーションは Rails で構築されていて、自分は主に顧客管理とか決済部分なんかを開発した。

ペ社では通常、インフラを担当する専任のチームがサーバーの面倒を見る。しかし Dazaifu Project はスモールスタートを掲げていたので、インフラも @linyows さんが一人で構築していた。今自分が配属されているサービスは結構でかくて、サーバー管理はインフラチームが担当し基本的に自分たちで設定を変えたりサーバーを構築したりすることはない。ちょっと Nginx の設定を書き換えるのにも申請書出してハンコリレーしたりしないといけない。おかげで凡ミスで 500 エラーみたいなことにはなりにくい仕組みになってるんだけど、リリースのスピードを上げにくい。そういう状況からすると、 FANIC でミドルウェアのバージョンを上げるのなんかも部署間の調整が必要なくさくっと出来たのはとても良かった。加えてデータベースが MongoDB だったため、データ構造の変更が柔軟に出来たのも良かった。

社内でいち早く CoffeeScript 使ってみたほか、ペアプログラミングもやってみた。かなり疲れるけど集中して取り組めるし、プログラマー間で仕様を共有できるのでこれは良いものだと思った。 FANIC のおかげでずいぶん成長させてもらったと思っている。

FANIC でつらかったこと

FANIC ですべてが良い方向に向かっていたかと言えば、決してそうではなかった。技術的にもプロジェクト運営的にも、苦しい部分が多々あった。

MongoDB で金の計算

技術的にはまず MongoDB で金の計算をするのがつらかった。

決済部分の開発で MongoDB の Embedded Document でかなり苦しめられた。契約 Collection の中に Embedded Document として請求と入金があるという構造だったけど、契約日と入金日が月をまたいでいて、一つの契約 Document 内にある Embedded Document をそれぞれ別の月の入金と請求とする必要があり、かなり苦しい感じだった。前受金の概念とかも Document 指向のデータベースで対処するのは地獄的な感じがした。Document の中に何でもスポスポーと Embedded Document を突っ込んでいけるのは便利なんだけど、親 Document と Embeded Documet を別の文脈で使おうとするときに困難が生じると思った。

MongoDB を大規模に利用している CA 社も JOIN ができないので金関係だけは MySQL でやっているという話を聞いたことがある。金の計算をするときに JOIN の代わりに Map Reduce する必要があったけど、自分が開発に利用していた頃の Mongoid (MongoDB 用の ActiveRecord 的なやつ)は Map Reduce に対応しておらず、 Rails のモデル内に Map Reduce 用のクエリ(MongoDB のクエリは JavaScript で書かないといけないので Rails のモデル内にヒアドキュメントで JS が書いてあるという地獄っぽい感じになる)を書いたりした。Map Reduce しないのであれば二重 Loop でグルグル処理を回さなければならず、毎度これを Ruby にやらせるのはパフォーマンス的にしんどかった。総じて MongoDB は大量のデータを集計したりするのには向いてないかなーという印象を持った。それぞれを独立したドキュメントとして利用する機会が多いタイプのアプリケーションには向いてる気がする。設定情報の保存とかブログ記事の保存とか。金系のデータが沢山入っていてそれを月ごとに集計してどうのこうのとかやるときがつらい。

Mongoid のため便利 gem が使えない

Rails エコシステムの中で MongoDB は少数派だから、様々な便利 gem が ActiveRecord に依存していて使えないことがあったのも困った。たとえば ActiveAdmin が ActiveRecord に依存しているために利用することができず、顧客管理を一から実装しなければならなかった。なければ作る or Pull Request 出して取り込ませる、というようなマッチョマンじゃないと Rails でレールから外れるのは厳しいと感じた。

リーンスタートアップできていなかった

プロジェクト運営的には、チームの目標とか優先順序の付け方とかがハッキリせず、行き当たりばったりな開発・運用になっていたのがつらかった。

2012 年の春、『リーンスタートアップ』が流行ってた。みんな本買って読んでて、社内で antipop さんによる講義とかもあった。でもリーンスタートアップは本当に難しくて、誰でもリーンスタートアップ読めば新規事業で成功できるわけではないと思う。サービスの企画立案者が有能なだけでは不十分で、起業家に加えて、極めて優れたエンジニアが付帯していないと厳しいと思う。自分たちに必要だったのはリーンスタートアップを読むことではなかった気がする。全然そのレベルに到達していないという感じだった。

思い込み・お問い合わせベース開発

リーンスタートアップには、仮説の検証をものすごい速度で行ってフィードバックループを回さないといけないと書いてあるけど、そもそも自分たちには仮説の検証方法が存在していなかった。本に書いてあるとおりに様々な仮説を素早く検証していくには、企画担当者がやりたいと思ったことを一週間くらいで実装して次々に仮説を検証していかないといけない。A/B テストをやるにしても、A/B テストをやるための仕組み作りが大変だと思う。オープンソースで使えるものに Cookpad の Chanko とかあるけど、 MongoDB がネックになって利用できなかった。自分たちでそういう仕組みを作るにはかなり多くの時間を作らなければならなかったと思う。結局思いつきやお客さんからのお問い合わせベースで開発する機能が決定されて実装されていった。お問い合わせが結構あったから 1 ヶ月以上かけて実装してみたのに全く使われない機能とか、これは絶対に行けるはずと自分が思い込みで提案して実装したのに全く使われない機能とかあって、全然良くなかった。

ちなみに↓のスライドではてなブログのリーンな開発風景が紹介されてるけど、情報収集のところで紹介されてる手法を真似しようとするとかなり大変だと思う。雑魚いエンジニアしかいないとここまでやるのは難しい。

技術的に正しいことをしようとこだわりすぎて中途半端になっていた

入社した頃、テストを書くという習慣がプロジェクトになかった。プロジェクトに加入した初期の頃から自分はなるべくテストを書こうとしていて、テストを書く習慣を定着させたつもりだったけど、これも良かったのか悪かったのか分からない。テストを書くとどうしても時間がかかってしまう。 TDD BootCamp Fukuoka Vol.2 できしだなおきさんが言っていたんだけど、テストコードがあるとプロダクトコードのメンテナンスに加えてテストコードのメンテナンスも必要になる。そうすると俊敏に動くということが難しくなる。自分はテストを書くことに時間をかけすぎてしまってサービス開発のスピードを鈍らせていたような気がする。

テストを書いたりリファクタリングをしたりしないのは正しい行いではないと思うけど、会社に雇われて給料をもらっている以上、サービスを成長させることがエンジニア云々以前にサラリーマンとして大事だと思う(『情熱プログラマー』とかにも書いてある)。特にプロジェクトの最初の段階では、技術的な理想を追求するよりも、不完全でも良いのではやく製品を投入して一つでも多くの仮説を検証して学びを得ることの方が重要なのではないかと思った(Minimum Viable Product)。

自分のプロダクト感を持てていなかった

サービスに対して、「自分たちのプロダクトだ」という感覚が希薄だったと思う。そもそも hitode909 さんのスライドみたいにドッグフード食べてなかった。自分の FANIC 上のページは検証用に作ったインターネット上のゴミみたいなページだった。

みんなビラ配りとかオフィス外での宣伝活動とかに消極的だったし、このプロジェクトがぽしゃったら失職する、みたいな危機感が希薄だった。自分は机に座ってプログラミングできればそれでいいみたいな感じがあった。口ばっかりで手が動いてなかった感がある。

地元の野外フェスとかに行ってビラ配るとかオフラインでの宣伝が必要だったのかもと思う。終わるって決まったとき、やりきった感がなかった。これでうまくいかないなら仕方がない、と思えるところまでやれてなかった。

エンジニアであってもプロジェクトの当事者意識を強く持たなければならないのだと思う。いまいくら自分たちが稼いでいて、あといくら稼ぐと黒字になるのかとか、どのくらいのスピードで成長していかなければならないのかとか。

チームの雰囲気が良くなかった

一番の苦しかったのはこれだと思う。

いま思い返してみると、 1 年半の間でチームのメンバーが揃って食事をしたのは 1 回くらいしかなかった。お互いへの理解が欠如していたような気がする。雰囲気悪かったからサービスが崩壊したのか、サービスがうまくいっていないからギスギスした感じになったのかは分からない。ただ、雰囲気の良くないチームが作る製品が良いものになることは基本的にないと思う。

FANIC を離れたあとも、会社を挙げて永和システムマネジメント社の講習を受けてスクラムに取り組んだりしてる。しかし結局どんなプラクティスを導入しようとも、チーム内でコミュニケーションが取れていないと技術的に見過ごすことの出来ない問題に気づけず非常に大きな手戻りが発生したり、仕様上の大どんでん返しがやってきたりする。技術的に足りない部分があったとしても、コミュニケーションが機能していたらカバーできたのではないかと思う。

結論

結論としてはチームで寿司を食べたりするしかないと思う。銀しゃりのまばゆい輝きが、うにやいくらの神々しい光が、鋭利な刃物のように光るサバのにぎりが、闇を照らしてくれる。

上にぎり 1.5 人前


この記事は闇 Advent Calendar 2013 - Adventar 22 日目の記事でした。 23 日目は hurutoriya さんで、今日の担当は @udzura さんです。