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Ruby on Railsの生みの親、デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソンの勤務先37シグナルズの本。CEOのジェイソン・フリードとデイヴィッドの共著です。とても共感しながら読むことが出来ました。個人的に響いた部分を箇条書き。

計画をやめる

  • 計画を予想に言い換える。誰にも未来のことを計画するなんて不可能。
  • 計画はあらかじめ立てるのではなく、やりながら立てる。やっていないと情報が集まってこない。

最適な規模

  • 無意味に拡張しない。規模の拡大はコストも増やす。
  • 働きすぎるのは馬鹿。ヒーローになるな。

自分たちが必要なものをつくる

  • 37シグナルズの Highrise は自分たちが必要性に駆られて作った。

まずつくる

  • アイディアは実行しなかったらアイディアのまま。
  • 金がないとか時間がないとか言い訳にならない。ベストな状態で始められることなんてない。本当に実現したいことだったら金や時間は自分で工面をつけるもの。

金を借りない

  • ウェブサービスとかは特に金が必要ない。
  • 他人の金が入ると感覚がおかしくなるし、長期的な視野を持てない。

なんでもまず自分たちでやる

  • 会社の規模はコンパクトに維持し続けるべき。
  • まずなんでも自分たちでやってみる。できなかったら人を雇う。

スタートアップという意識を捨てる

  • スタートアップには甘えがある。
  • 他人の金で好きなことをやるなんて幻想。
  • 最初から利益の出せる企業を目指すべき。
  • exitのことを考えるとユーザー本意のサービスが作れなくなる。

制約を利用する

  • 優れた作家は制約のもとで創作していた。シェイクスピア、ヘミングウェイ、カーヴァー。
  • 一度にサービスに携わる人間は一人か二人に限定し、機能は絞る。
  • 芯から作り、本質的でない細かい部分は後回しにする。

副産物

  • 企業は自分たちが気づかないうちに副産物を生産している。木工所はおがくずを売った。37signalsはGetting Realという本を副産物として売った。

すぐリリース

  • 不完全な状態でも最低限な条件をクリアしたらすぐにリリース。

会議をやるやつは馬鹿

  • 会議は時間の無駄。やっても7分。
  • 会議には準備が必要だが、十分に準備することは不可能。
  • 1時間の会議に10人が参加したら、10時間の生産性が犠牲になる。会議にそんな価値はない。
  • 会議は新たな会議を生み出すだけなので不毛。

一人で作業する時間をつくる

  • 電話とかメールとかシャットアウトする時間を作らないと生産性は上がらない。
  • せめて一日の前半か後半のどちらかは一人作業モードに設定すべき。
  • 連絡手段は電話やチャットなど即時対応式のもではなくなるべくメールにする。

そこそこの解決策

  • 完璧な解決を求めようとしない。そこそこの手段で済む問題にはそこそこの解決策を。問題があれば後から良くすればいい。

タスクは分割する

  • 長大なタスクリストは気が滅入るだけ。
  • 100のタスクを10ずつに分解すれば心理的に楽になる。

はまったら人に見てもらう

  • 意固地になって無駄に時間を費やすとコストに見合わなくなる。
  • はまったら他の人に冷静な視点でレビューしてもらう。

寝る

  • 睡眠不足は創造性を損なうし、士気が低下する。間違いも犯しやすくなり、他人に不寛容になる。いいことは一つもない。

真似ない

  • コピペコードは理解が伴わないから、いつまで経ってもオリジナル作者にかなわない。

社員が一緒の国に住んでる必要はない(デイヴィッドは入社当初はまだデンマークにいたらしいです)とか他にも面白いところもあるんだけど、英語がしゃべれないとこの辺は僕らには当てはまらないですよね。あと会議を極力しないってのは理想だと思うけど、受託開発というかホームページ制作みたいなお客さんがいる仕事してたら打ち合わせはしないといけないわけで、なかなか難しいでしょう。

でも電話や会議などは確かに生産性を損ねていると思う。電話なんていきなり日常業務に割り込んでくるわけだから。電話は予約制にして欲しい。何日の何時に電話したいのでお願いしますみたいな感じでメールしろや。

雑談の排除とかも大事ですよね。僕はなるべく仕事中は雑談しないようにしてる。だからといって生産性が高いかと問われれば疑問なんだけど。でも雑談とか会議とか打ち合わせとかやって仕事した気になってる人は多いと思う。例えばこの本では人の雇い方のパートで、仕切り屋を雇うなみたいなことが書いてある。仕切り屋は会議好きで、自分の仕事を作り出すために会議を開きたがる。まったく何の価値も生み出さないのに、会議に参加することで会社に貢献しているふりをするわけですね。こういうのは本当に最悪。

37シグナルズの発想は、ピュアに作り手だけで会社を動かそうという風に読めました。広告とか営業とか意味ないというか、頼りにしないという考え方。本当に良いものを作って自分たちのファンになってもらえたらサービスを使ってもらえるようになる。特にウェブサービスとかはそうですよね。広告とかPRとかは金ばかりかかって効果がないということに気づかないと。有名な雑誌や新聞に取材してもらうことも否定していますが、折角ユーザーと直接結びつけるのがウェビサービスを提供する企業のメリットなんだから、そこにいちいち旧メディアや広告屋を介在させる必要はないですよね。またセールスマンを省きサポートも極力エンジニアが行うことで顧客の要望が直に作り手のところに伝わる(とはいえ本書では逆に顧客の要望には応えすぎるなとも書かれてはいます。その辺は買って読んでみてください)。

シンプルに、極力自分たちで会社を動かそうとすることで、大企業が抱えるいろんな問題が回避できるというのがこの本のエッセンスでしょう。Railsはお触り程度のことしかやってないですが、CakePHP(RailsのPHP移植版)越しにそのすさまじさというかすごさは実感しています。こういうすごいフレームワークがあるいまは、本書で掲げられていることは単なる理想や夢物語ではなく十分実行可能なものであると感じます。自分たちだけでなにかをやることが十分に可能。

とにかくなにかつくってみよう、と思わせられる本でした。Ruby on Railsの勉強を本格的に始めてみたいと思います。

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学生の頃に買って積ん読になっていた本を引っ張り出して読みました。いわゆる「京大式カード」の本。40年前の本ですがおもしろかったです。

発見の手帳

著者の梅棹先生は高校生の頃にレオナルド・ダ・ヴィンチについての小説を読んでダ・ヴィンチがメモ魔だったことを知り、それに感銘を受けて『発見の手帳』を綴ることにしたんだそう。それが発展して有名な「京大式カード」に進化したらしいです。

僕自身はそういうノートを綴ったことはないけど、そういうの必要だなと思ったことは何度かあります。大学受験で小論文の勉強をしてた頃とか。電車に乗ってるときとか道を歩いているときとかにぽっと何かが思い浮かぶことがある。これは後から早速文章化しようと思っていても、いざ紙と鉛筆がある机の前に座るとさっきのアイディアは忘れてしまっている。こういう経験みなさんないですか? 自分の記憶ほどあてにならないものはないわけです。

いまはこういう突然のひらめきのうちのおもしろネタとかはTwitterにポストしてますが、Evernoteにどんどん放り投げていくのなんか良さそうですね。

理想の手帳はモレスキン

梅棹先生が理想としてあげているノートの特徴がモレスキンそのもので大変興味深かったです。

 大学ノートではポケットにはいらないから、やはりちいさな手帳ということになる。しかしこれは単なるメモではなく、小論文をかくものである。その点では、型がおおきいほうがいい。いろいろなのをためしてみたのだが、相反する二つの要求を満足させるために、けっきょく、新書版のたけをすこしみかくしたくらいのおおきさでおちついた。

 もうひとつ、机がなくてもかけるという条件をみたすために、表紙には、おもいきってあついボール紙をつかったほうがよい。そうしておけば、ページをひらいて、左手でささえて、たったままでもかける。かなり長期にもちあるくものだから、製本はよほどしっかりしている必要がある。なかの紙には、横線があればよく、日づけそのほか、よけいな印刷はいっさい不要である。市販の手帳には、なかなかいいものがないので、注文で気にいったものをたくさんつくらせて、グループでわけたこともあった。

梅棹先生はシャレオツさとか画家や文豪が使っていたからということよりも、実用性とか経済的な合理性を重視されてる。モレスキンはメモ帳として使うには高すぎるのは確かです。小さいやつでも1,890円する。引用部の後ろのほうにありますが、結局注文で大量に自分が気に入った型のノートを作らせるのがよいらしい。一度に大量生産するのが一番安上がりだということです。

また既製品はメーカーの事情で製品ラインナップが変更されて気に入ったものが仕様変更されたりなくなったりする。特注品を一度に大量発注してストックしておけば、この手の問題も解消できると梅棹先生は説いておられます。確かにモレスキンも一旦会社が倒産して絶版になってましたもんね。

富豪的ページングのすすめ

『発見の手帳』の具体的な使い方として、1ページ1項目の原則を挙げておられます。僕は生来の貧乏性が災いしてか、学生時代のノートとか結構けちけちとっており、これが著しく情報の検索性を低下させたと思い反省しています。先生は高校時代から授業の板書などは片面だけにとるようにしたそうです。右側にノートをとり、左側は空けておくという使い方だそう。そうすると左に自分の考えを書き込めるというわけですね。確かに学生の頃、頭が良い人のノートとかを借りたときとかは、片面だけ使う使い方ではないにせよ、スペースを十分にとって見やすいレイアウトでした。

あと索引をつくり検索性を上げるようにということを説いておられますが、今日においては発見の手帳的役割を担うのはEvernoteでしょうから、1ページ1項目の原則も索引を作る原則も現代人は簡単に満たせてしまうわけですね。これは非常に素晴らしいことだと思います。

書くことについて

本書では情報の整理術の他に、書くことについても梅棹先生の慧眼が光ります。海外の人々と手紙をやりとりするときは言語はまちまちでも決まった体裁があり、非常にやりとりがしやすいが、日本人の手紙には決まった体裁がなく、日付や署名を入れる場所や、入れるか入れない自体が各人でまちまちであったりする。そもそもきちんとした手紙のフォーマットを学校で教えないから日本人は手紙を書けなくなってのではないかと嘆いています。当時の統計で日本人は電話機一台あたりの通話回数が世界一だったそうです。

なぜ日本人は手紙を書けなくなったのか。内容重視の考え方が良くないのではないかと梅棹先生は考えておられます。形式よりも内容を重視すべきという思想が、手紙の形式を否定した。その結果「まったく無内容でも、手紙をだすこと自体に意味があるというような手紙さえ」出せなくなってしまったと。

ブログ、ひいてはなぜTwitterが流行ったかといえば単純だったからだと僕は思います。ブログは最低タイトルと本文さえ書けばパブリッシュできます。Twitterにいたっては本文140字のみ。考えようによればこれらは非常に制限が厳しく、Twitterやブログツールが求める型に従わないと文章のアップロードができないと言えます。しかしその反面、非常に気軽に書くことができるわけですね。本文さえ書けばよく、デコレーションとかその辺のことはいっさい気にする必要がない。形式などに制限があった方が気軽に書けることもあるのです。

文章の形式とかはもっと学校でしっかり教えていいと思いますね。似たようなことを過去に書きましたが(文章の書き方について)、小論文の書き方とか実はある程度体裁があります。そういうのさえ知っていれば、文才がない人でも誰でもちょっとした文章は書ける。日本の国語教育は名文に触れることとかばかり重視してるから文章を書くことが苦手な人を量産してるんだと思うんですよね。

日本語との格闘

興味深かったのが梅棹先生のタイプライターとの格闘の歴史です。先生はタイプライターで文章が書ける欧米人の環境がうらやましくて仕方なかったらしく、一時期はローマ字で手紙を書いたりしていたそうです。

その後いち早くカナモジ・タイプライター(和文タイプライターとは異なる)を導入したりもしたそう。日本語をローマ字で綴ろうという運動が戦前にあったとかいう話は聞いたことがありましたが、正直ピンと来ませんでした。しかしこの本を読んで、ワープロやパソコンが普及する前の時代の日本人は、タイプライターが使えなかったので基本的に文章は手書きしていたわけです(和文タイプライターは高価だし手書きより早くはタイプできなかったようです)。これはいまから考えると地獄そのもの。推敲していて文章の並びを換えたいときは書き直しです。いまなら気が狂いそう。

加えてEメールなら当たり前に取れる送信メールのコピーが、手紙の場合は取れない。当時はコピー機も今日ほど普及しておらず、相手に送った手紙を参照するためには相当なエネルギーが必要だったわけです。その点でもタイプライターならカーボン紙をはさんで打つことで簡単に複写が取れたそうです。

アドレス帳の整理にも苦心しておられた模様。いまなら届いたメールに返信するだけでメーラーが勝手に付属のアドレスブックに登録してくれたりと、こういうのは非常に楽になっています。

まとめ

総じて梅棹先生は、1960年代に一人だけ現代を生きていたような気がします。ただその発想を支えられる環境がなかったから、頭の中でiPhoneやEvernoteの代替となるような仕組みを作り上げていた。並々ならぬ努力がうかがえます。自分だったら絶対無理。TumblrやらTwitterやらEvernoteやらiPhoneやらTomblooがあるいまの状況を非常にうらやましく思われることだろうと思います。

確かにこの本に書かれている技術は現代では直接は役に立たないけど、Evernoteのようなソフトがあって、ローカルとクラウドで情報を同期しながらメモやアイディアを書き込める場所があることのすごさに気づくことが出来ます。

自分たちがいまいかに恵まれた時代に生きているかを実感させられる本でした。

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今日は読書の方法について書いてみます。自分の読書方法をオススメするわけではなくて、他の人の読書方法を知りたいという意図のもと、まずは自分の読書方法を開陳してみる次第です。だめ出しとか突っ込みとかさらにいけてる読書方法があったら教えて欲しいです。

付箋を貼ってる

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ここ一年くらいの習慣ですが、読書をするときには重要だと思える箇所や気になった箇所に付箋をつけるようにしています。読書といっても小説は含みません。ここでいう読書とは新書など少し堅めの本を読むことを指します。

本に線は引きたくない

本に直接線を引く人もいます。しかし僕はそれは気が進まない。理由は貧乏性だからで、いつかその本を売るかもしれない。線が引いてあると買い取り拒否されるかもしれない。付箋なら売るときはがせばいいので問題なしなわけです。(といはいえ読まなくなった本を売ったことはないんだけど)

売る売らないは別にしても、誰かに貸したりあげたりしたときのことを考えると、何となく本には線を引きづらいです。特にハードカバーの本には線が引きづらい。ソフトカバーのいわゆる学校の教科書的な本や問題集などにはためらわずに線を引きます。売ることもないしこの手の本はどんどん情報が古くなっていく消費財だから。しかしハードカバーの本は自分の所有物でも簡単に何かを書き加えてはいけないような緊張感があります。

話がずれました。そういうわけで僕は線を引くかわりに付箋を使ってます。

三色ボールペンメソッド

本に線を引く方法で知っているものに斎藤孝さんの三色ボールペンメソッドがあります。「重要」、「とても重要」、「個人的に面白かった」の三種類で色を使い分けるやり方です。

理想的なのは本の内容に沿って色を使い分ける方法でしょう。テーマAについては赤、Bについては青、Cについては黄、といった具合で色を使い分けておくと、後から読み直すときに非常に内容を把握しやすい。

しかしこれはあくまで理想論で、本を頭から読んでいる段階でその本の中に何種類のテーマがあるのかを把握し色を用意していくのは困難。結局三色くらいで、重要度や自分が受けた印象に合わせて色を使い分けるのが現実的なマーキングのあり方でしょう。

付箋の貼り方

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僕が使っている付箋は住友スリーエムの『ポスト・イット®ジョーブ 透明見出し』です。プラスチック製のケースに入っていていて、ティッシュみたいな仕組みでぺりぺりと交互に調子よくめくれるところが気に入ってます。下半分は透明になっているので本文の上に貼っても内容が見えなくなることはありません。カラフルな色バリエーションもいい。

しかしながら色が多すぎるのは否めない。6色もあります。3色くらいがベストですね。6色のなかの特定3色だけ用途を決めて使えば良いんだけど、貧乏性なのでついつい6色満遍なく使ってしまう。その結果、折角色つきの付箋を使っているのに色を見ただけで意味を理解できないという非常に残念なことになっております。貧乏性の馬鹿野郎。

読んでいて重要だと思った箇所や個人的に面白かった箇所に付箋を貼りながら読んでいき、読み終わったらブログに感想を書く前にもう一度付箋が貼ってある箇所を拾い読みします。この作業でだいたい本の内容が頭に入ります。

今後の課題としては、もっと付箋の色を抑えて、それぞれの色に特定の意味を持たせてそれを定着させる必要があります。

中途半端な感じですが以上が僕の読書スタイルです。よかったらみなさんの読書スタイルを教えて欲しいです。

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世界は村上春樹をどう読むか

評価 : ★★★★☆

村上春樹の小説の翻訳者達が東京に集まって開かれたシンポジウムを書籍化したもの。面白かったです。

例によって印象に残ったところを過剰書き的に書き出しながら書いていきます。

翻訳先の国の発展度に応じて訳が変化する

中国語圏では台湾や大陸、香港とそれぞれ別人によって訳されたバージョンが存在するらしい。それで訳され方が異なるのだとか。例えばノルウェイの森で主人公が夜中の新宿の喫茶店でトーマス・マンの『魔の山』を読んでいると二人組の女の子がやってきて相席になるシーン。ここで主人公はカフェオレとケーキを注文するのだけど、台湾版ではカフェオレが何であるかの注釈付で訳され、大陸版では「コーヒーとハンバーガー」と訳されてしまっているらしい。これから分かることは、少なくともノルウェイの森が翻訳された時点で台湾ではカフェオレはまだ一般庶民になじみが深いものではなく、中国大陸では終夜営業の喫茶店に入ってカフェオレとケーキを頼むというニュアンスが読者に伝わらないため、カフェオレはコーヒーに、ケーキはハンバーガーに置き換えられたのだろう、ということ。文化的社会的な背景から直訳が難しい箇所があるというわけ。例えば村上作品にはジャズのレコード名が沢山出てくるが、中国語にはカタカナがないため、またロシアではジャズの知名度自体が高くないので翻訳者は訳すときに難儀するらしい。この辺の事情話は非常に興味深かった。旧共産主義国ではジャズに限らず、冷戦時代の映画やロック、ポップミュージックなどのバンド名を書き連ねてもニュアンスが伝わらないだろう。だからといって作中の固有名詞を好き勝手なものに変えてしまってはまずい。例えば僕が村上春樹の短編の中で好きな「ファミリー・アフェア」(『パン屋再襲撃』に収録されてる)にはホセ・フェリシアーノフリオ・イグレシアスが頻繁にネタキャラとして登場する。ダメな音楽、ダサい音楽の象徴として登場するのだ。ホセ・フェリシアーノフリオ・イグレシアスは『夜のくもざる』という短編集の「フリオ・イグレシアス」の中にも登場する。これがめっぽう面白いのだけど、もしこれが適当に他のアーティストに置き換えられると印象が変わってしまうだろう。僕は個人的にはホセ・フェリシアーノを現代のアーティストで置き換えるとしたらリッキー・マーティンなんかが良いんじゃないかと思うんだけど、村上春樹はこの辺にはかなりこだわりを持ってチョイスしていると思うから、うかつに記号をすげ替えるわけにはいかないだろう。翻訳者の苦労が想像できる。

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評価 : ★★★★☆

面白かったです。日本占領下のシンガポールを舞台にした小説。英軍の要塞跡などは去年旅行したときに訪れたし、博物館の史料も食い入るように見ていたので旅行したときのことを思い出しながら読むことが出来た。

主人公はシンガポールで暮らす台湾出身の青年梁光前。当時台湾は日本の植民地だったので梁光前の国籍は日本であり、シンガポールでは日本人貿易商桜井が経営する会社で貿易事務に携わってる。社長一家とは親しい間柄で、社長の息子で同い年の幹夫と、幹夫の妹摩耶とは東京で一緒に暮らしたことがある仲。実は梁光前は摩耶に惚れてたりする。

戦争が始まって桜井家の人間は敵性市民ということで英軍に捕らえられ監獄に収容されるが、主人公は香港人のふりをして収容を逃れる。しかしスパイの嫌疑をかけられて英軍と警察から追われる身になり、しょうがなく抗日華僑義勇軍に参加してマレー半島を南進する日本軍と戦うことになる。一方で日本軍がシンガポールを陥落させた後の軍政下で主人公は再び日本側についてしまうので華僑の反感を買ってしまう。果たして無事終戦を迎えられるのか? 梁光前の運命やいかに? っていう内容。

冒頭から一杯伏線が仕掛けてあるんだけど、連載小説だったのかな、伏線が消化されることなく物語が終わってしまった。「え、あの登場人物は何だったの? ちょい役なら名前与えなくても良かったんじゃないの?」ってのが多い。当初の構想より大幅に物語が圧縮されてる印象。

著者はシンガポールに住んでたのかな、っていうくらいシンガポールのことに詳しい。戦争中のシンガポールのことなんてシンガポール人でも知らないだろうことを詳細に調べて書いている。インターネットもWikipediaもない時代にこれだけ調べ上げるのはさぞ骨の折れる作業だったろうなーと思った。

あと主人公が日本人摩耶と中国人の娼婦麗娜との間で揺れ動く恋愛模様も描かれる。主人公は摩耶のことが好きで香港人のふりをしてシンガポールにとどまり続ける。彼女のために無理をするんだけど、結局摩耶には見向きもされない。一方麗娜は梁光前は自分に気がないってことを分かっていながらも梁光前に献身的に尽くす。で、ネタバレさせていただくと最終的には梁光前と麗娜の二人は幸せになるんだけど、娼婦と結ばれるのってぶっちゃけどうなんだろう、って僕は思う。いや、娼婦だから差別するとか口を利かないとか物を売らないとかそんなんじゃなくて。普通に近所に娼婦がいたからって無視したりとかはしませんよ。ご近所さんとしては普通に付き合う。しかし、娼婦を嫁さんにするとなると話は別だ。「娼婦や遊女を身請けして嫁にするのが男の中の男、かっちょいい!」みたいな風潮には疑問を覚える。女の子とかは複雑な事情のある女も無条件で受け入れる男のことが好きなんだろうけど、いやぶっちゃけそういうのは難しいよ。商売で他の男とセックスしてる(してた)女の人を嫁さんに出来る度量があるかって言われたら正直僕はない。性行為ってのは生殖という人間の本質に関わる部分だから、なかなかすんなりと自分を慕ってくれるからという理由で売春婦と結婚することは難しい。もちろん女の人が売春に至るには複雑な事情があることは想像できるんだけど。ああなんか書いてることが訳分からなくなってきた。

まとめると、シンガポールに住んでたことがある人とか旅行したことがある人にはお勧めです。

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43のキーワードで読み解く ジョブズ流仕事術

評価 : ★★☆☆☆

どうすればスティーブ・ジョブズのように働けるか、という趣旨の本らしいです。

ジョブズ本は一冊も読んだことがなかったので買ってみました。ちょっとググればスティーブ・ジョブズの人柄がどんなものであるかは理解可能です。若い頃はタダ電話機で儲けたとか、スティーブ・ウォズニアックを騙して分け前を過少にしか与えなかったとか、完璧主義者ですぐ部下を罵るとか。

この本にもだいたいそれらと同じようなことが書いてあって、まぁこの通りの人なんだろうなぁと感じました。ただこれ、一応ビジネス指南書みたいな体裁をとってますが、この本読んでビジネスマンがそれ真似するとかあり得ないと感じます。ただのスティーブ・ジョブズ評伝で、各項目の最後に申し訳程度に「あなたもスティーブ・ジョブズのやり方を参考にしてみてはどうだろうか?」という記述が書き添えられているだけです。

ジョブズの下で働きたいか?

スティーブ・ジョブズは確かに天才だとは思います。スティーブ・ジョブズの考え出した製品(MacやiPod)は素晴らしいと思います。しかし自分がスティーブ・ジョブズの下で働くことになったらどうだろう、と考えてみました。僕としてはまっぴら御免です。

確かにジョブズのように理想が高く、何でも他人を意のままに動かし、人に嫌われることをいとわずに厳しい言葉を浴びせたり厳しい目標を設定して実行させたりする人が作り出す製品は素晴らしい。例えば初代iMacからフロッピーディスクドライブを取っ払ってUSBポートを付けたのもスティーブ・ジョブズの慧眼あってこそ。当然社内では反対意見も出たでしょう。並の経営者だったらこんな思い切りの良いことはできなかったかも知れません。PowerPCからIntel CPUへの移行もしかり。旧来のユーザーの反発を招くことであっても、よりよい製品を作り出すためと割り切って実行できるのはAppleの長所だと思います。このように会社はある程度独裁状態の方が、ぽんぽんぽーんと思い切りの良い決定が出来て物事うまく進みそうです。

しかしスティーブ・ジョブズは完璧主義者で自分の思い通りに動かない部下には容赦なく罵詈雑言を浴びせ、部下を挑発するような意地の悪い質問をし、能力が不足している社員はすぐにお払い箱にするような人物です。こんな人の下で働くのは、よほどスティーブ・ジョブズの提示するビジョンに惚れ込むとか、死ぬほどMacが好きだとかじゃない限り無理だと僕は感じます。嫌な奴の下で働くくらいだったら、世界を変えるよりも砂糖水を売ってる方が良い、ってこともある。

印象に残った点

ジョブズの人柄云々は別にして、印象に残った点というか、日頃から感じていることを少し。「13 自分のプロジェクトと成果物を愛する」という項目で、スティーブ・ジョブズが自ら製品の広告塔を買って出ることが書かれています。日本では車はもちろんのこと、家電製品まで新製品の発表会には水着のおねーさんがやってきてにこやかにポーズを決め、製品とともに写真に収まっています。しかしながら本当に素晴らしいプロダクトであれば、製品のこと何も知らないようなおねーさんを連れてきてポーズをとらせる必要はないわけです。スティーブ・ジョブズのように社長がいかにその製品が優れているのかをプレゼンすればオッケーじゃないですか。むかしソニーのシャチョーが「半年でiPodを追い抜く」と言ってウォークマンの製品発表を行ったときに、なんと自社製品を上下逆さまに持って写真に写ってるやつがありました。これなんか酷い、酷すぎる。社長が自社製品のこと何も分かってないとか最悪ですよね。こんな会社からは到底良い製品は出てきそうにない。

そもそもなぜジョブズはあんなにプレゼンがうまいのか。Keynote.appが優れているのか? 業者に外注してKeynoteを原稿を書かせているのか? そんなことじゃないですよね。あれはスティーブ・ジョブズが自社製品のことを知り尽くしているし、素晴らしいものを作ったと確信しているから。僕はジョブズが2007年1月のMacWorldでiPhoneを発表するときのシーンの動画を繰り返し見ています。観客も何が発表されるのか分かりきっているのですが、それを焦らすジョブズ。表情はにたにたしていて非常に楽しそうです。ソニーのシャチョーさんにもこういうところ見習って欲しいです。水着のおねーさんとかいらないから。

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Web2.0的成功学

評価 : ★★☆☆☆

かなり昔に買って積ん読になっていたものを読了。「Web2.0」ってタイトルには付いてるけどWeb2.0についての記述は少なく、殆ど情報の経済学と日本社会論の本でした。大学で経済学を勉強した人だったら第一章と第六章だけ読めば良い感じです。第二章から第五章にかけては経済についての記述が殆ど。しかし逆に経済学をご存じない人にとってはこの辺りの記述は参考になるかも知れません。

全体的に可もなく不可もない内容だと思ったのですが、最終章のWeb2.0的流行学の内容が気になりました。例えばラーメン屋の親父がWebサイトで割引券で客をつって「何が美味かった、もっとこうすればいい」みたいなアンケート書かせて万々歳だ、これがWeb2.0だ! みたいな記述があるのですが、割引券でつって消費者にアンケート書かせるやり方はWeb2.0的では全然なくて、昔からあるアンケートのやり方だと思います。むしろこういう人力のアンケート収集じゃなくて、アクセス解析ログとか検索キーワードとか、ユーザーが意図して発信したわけではない情報をコンピューターを使って分析・加工したものから新しい何かを作るのがWeb2.0なんじゃないかって思いますけどね。ユーザーの感想を得るんにしても、割引券でつって書かせるんじゃなくて、むしろユーザーが自己の表現欲を満たしたいために運営してるブログに投稿した内容を収集してきてどういう味が求められているのかを探るとか、そういう手法の方がWeb2.0的だなって僕は感じます。何でもWeb2.0にしちゃ嫌よ、って感じでした。