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梅田望夫さんの言うウェブの世界は頭のいい人しか相手にしてない、ってところからスタートして、ネットの否定というか、Web 2.0とか梅田望夫的楽観論の否定が延々繰り返される。ネットが普及しすぎたおかげでネット人口に占めるバカの割合が増えてしまったとか。以下印象に残った点を列挙。

ネットでも「誰が言ったか」は重要

ネットでは「誰が言ったかではなく何を言ったかの方が重要」ってのが通説みたいになってるけど、これが否定される。ネットでブログが炎上するときは、書いてある内容がアレでもドラマや映画の子役だったら批判されないが、嫉妬されるような立場にある人だと過剰に批判されるというもの。ここではダルビッシュ夫妻が例としてあげられる。

僕も「何を言ったかよりも誰が言ったか」ってのはネットでも大事だと思う。例えばTwitterでもブログでも、それまでその人がそのアカウントなりサイトで積み重ねた信頼みたいのが発生する。無名の新規ユーザーがいきなり「梅田望夫は頭が気の毒」と言っても便所の落書きだけど、はてな村の大御所が同じことを言ったらかなり影響を及ぼすはず。とはいえ長期的に罵詈雑言とか根拠なしの暴言ばかり吐いてたら折角積み重ねた信頼は崩れ落ちるから、結局は「何を言ったか」が重要なことは変わりないんだけど。でもそれ言い出したらネットも日常生活も同じだよね。っていうかネットと現実を区別することもあまり意味がない。ネットも現実の一部だから。「ネットは匿名性が担保される」と信じてる人が短期的に暴れちゃうだろうけど、度が過ぎるとスマイリー菊池のブログを荒らした連中みたいにお縄を頂戴することになる。 続きを読む

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今日は福沢諭吉の話です。

脱亜論の提唱者でありアジア侵略の思想的な後ろ盾だと考えられる福沢諭吉は、実は侵略主義者ではなかった、という趣旨の本です。福沢諭吉が侵略主義者だったかについては2001年に論争になったらしく、この論争がタネになって書かれた本です。(安川・平山論争 - Wikipedia)。

僕は小学生の頃に学校の先生から

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言ったけど自分の娘は士族としか結婚させなかったろくでもない奴

みたいな話を聞いてて、すごい悪人だろうなという感想を抱いてました。アジア侵略も福沢諭吉の思想が反映されて行われたんだろうとも漠然と信じていました。

しかし著者によると、これまでに何度か刊行されてきた『福沢諭吉全集』には福沢諭吉以外の論説が意図的に紛れ込まされており、福沢諭吉の評価がゆがめられているというのです。大変興味深い主張です。

本の要旨は、だいたい以下のような感じ。

  • 福沢諭吉は時事新報社という新聞社をやっていて、福沢諭吉全集の多くの部分は時事新報に掲載された社説。
  • しかし社説には無署名のものが多く、福沢全集には福沢以外が書いたものが含まれている可能性がある。
  • 福沢の弟子だった石河幹明という男はアジアを蔑視しており福沢は快く思っていなかったが、実子はあまり出来が良くなく他の優秀な弟子たちも実業界や政界へ羽ばたいていったため、仕方なく石河を編集主幹とした。
  • 没後、石河が福沢諭吉全集や伝記を編纂した。

要するにこの石河っていうおじさんが自分の名前で出しても世間に見向きもされないであろう(アジア蔑視的)文章を、福沢諭吉のものとして全集に紛れ込ませた、ってことらしい。晩年の福沢諭吉は脳卒中で倒れてから失語症になり、コミュニケーションが困難だったそうで、それを利用して石河はやりたい放題やったみたい。

確かに、福沢諭吉はアジア侵略主義者と言われるけど、日清戦争前は朝鮮の金玉均など独立派を熱心に援助してた。それなのにアジアを侵略しろと言うとかおかしいっちゃあおかしいんですよね。

とはいえ、無署名の侵略主義的な社説を福沢諭吉が書いていないことの証明はまさに悪魔の証明であり、確固とした証拠が提示されることなく本は終わってしまいます。

真実は神のみぞ知ると言ったところでしょうか。僕は平山さんの言ってることが概ね事実なんだろうとは思うけど、その証明は本当に難しいでしょう。

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零戦と戦艦大和という本を読んだんですけど、これがなかなか面白かったです。一見、軍国主義万歳みたいなタイトルですが、実際はなぜ日本が戦争に負けたのかを識者が座談会形式で討論しています。これがまたとない日本社会論で、『パラダイス鎖国』にも通じる内容でした。

「今日の日本は64年前の日本とは全然違う、いまの日本はあんな無謀な戦争はやらないし、軍国主義は既に過去のものだ」。多くの人がそう思っているんじゃないでしょうか。僕もそう思っていました。でも読めば読むほど、戦時中の日本軍の組織は今日の日本社会と符合する部分が多くてびっくりしました。

以下印象に残った点。

  • 戦時中、アメリカの方が戦況は優勢だったのに、アメリカ海軍は26人も指揮官を更迭した。一方で日本海軍はゼロ。敗軍の将に花道を飾らせようと据え置いたりするから、当然また負ける。末端の兵士には厳しかったかも知れないが、上層部には甘い組織だったのではないか?

  • 日本軍はカタログ偏重主義で、兵器の開発にもカタログ値が良好であることを望む。しかし本当ならセットで考えなければならない人員の配置・交代など運用方法を軽視するから、零戦や戦艦大和がどれだけ優れていても有効活用できないままに終わってしまう。大和の主砲は世界最強の威力を誇ったが一隻も敵を沈めていない。

  • 零戦の成り立ちはまるで日本のガラパゴス携帯のよう。海軍及び軍需産業は多品種少量生産が好きで、部品の標準化などを怠っていた。結果、大量生産ができず、十分な数の兵器を生産することが出来なかった。この伝統は今日の日本の家電メーカーにも脈々と受け継がれている。

  • 日本の兵器は零戦など高性能なものもあったが、使いこなすには使い手の熟練が必要だった。対してアメリカは操作が単純で新兵でも簡単に使える兵器を大量生産した。

  • 日本の軍人は武士道精神を好んだが、同じ武士道でも戦国時代に書かれた宮本武蔵の『五輪書』と江戸時代中期に書かれた『葉隠』ではまったく定義が異なり、『五輪書』では戦場でいかに敵を倒して生き延びるかが書かれているが、『葉隠』では「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」など、世襲官僚としての処世術が書かれている。後者の美意識を規範にした日本軍は人命を軽視するようになった。

  • 誤った武士道の解釈により軍人が防御機構を要望することは恥とされ、零戦の装甲は薄かった。結果多くのベテランパイロットと機体を無駄に失った。

  • アメリカ軍は『プライベートライアン』などで描かれたように行方不明者が出たときに必死に捜索するなど個々の兵士を守ろうとするが(民主主義国家の軍隊)、日本軍は兵士の人命を粗末にあつかった(独裁国家の軍隊)。これが彼我の士気の違いにつながったのではないか?

  • 日本軍は一度作戦計画を練ったらそれが完璧だと思い込み、万一作戦がうまくいかなかったときのことを考慮しない傾向にあった。戦艦大和の装甲は世界一だったが、もし装甲が破られたときにどうするか(ダメージコントロール)が不十分だった。

  • 戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と言われたため日本軍に捕虜は存在しないことになり、万一捕虜になったときにどうするかといったことが兵士に教えられなかった。結果、捕虜になって絶望的な気分になり、アメリカ側に重要な情報を話してしまった将校もいた。

などなど。憲法が変わったり主権が国民に移ったり自衛隊がシビリアンコントロールに置かれるようになったり、外側は戦前から変わったと思うけど、中身があまり変わってないような気がしますね。非常に興味深い本でした。

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去年の秋、『日本語が亡びるとき』が話題になってたときに、読んでみようかなーと本屋に行ってみたもののAmazonで人気の本が田舎の本屋に置いているはずもなく、しょうがなく代替品として買った『英語の歴史―過去から未来への物語』をようやく読み終えた。英語1500年の波瀾万丈の歴史を概説した本だ。

そもそもイギリス人って誰よ?

今日のイギリス人の源流は北ドイツやデンマークらへんに住んでいたアングル族、サクソン族、ジュート族であり、彼らの言葉が英語の元になった(民族大移動期にヨーロッパ大陸からブリテン島に移住し、先住のケルト人を追い払って国を作った)。だからもともと彼らの話していた言葉はドイツ語の方言のようなものだったんだけど、今日の英語は大きくそれとは異なり、一見すると別物だ。イギリスは古くはデーン人(バイキング)、フレンチノルマン(フランスに土着化したバイキング)の支配を受け、英語は北欧語やフランス語に強く影響された。さらにルネサンス期にはラテン語やギリシャ語、そして大航海時代には世界各地の植民地の言葉を取り入れて大きな変化を遂げた。

名字から分かるイギリスの歴史

ヨーロッパの名字には「〜〜の息子」というようなものが多いが、英語にはバリエーションが沢山ある。Anderson(アンドリューの息子)、Browing(ブラウンの息子)、Fitzgerald(ジェラルドの息子)、McDonald(ドナルドの息子)などなど。Andersonは名前の後ろに-senを付ける北欧のスタイルを取り入れたものであり、北欧の名字のAndersen(アンデルセン)に対応する。-ingを付ける方法はアングロサクソン系の元々の、名前の前にFitz-を付けるのはフランス由来、そしてMc-はケルト系の人々の風習である。このようにイギリス人の名字の種類を見てみるだけで、イギリスの大まかな歴史が想像できてしまうのだ。面白いではないですか。

洗練のラテン語と粗野な土着語

英語には頭にin-とかun-とかを付けて反対の意味になる単語があるけど(indispensableとかunfairとか)、ラテン語由来の単語にはin-を付けて、アングロサクソン系の言葉にはun-を付けるみたい。日本語の漢語と和語みたいな関係ですな。ところで僕らは気付かないけど、イギリス人は「漢語」と「和語」を使い分けることがあるみたい。例えば第二次大戦中の1940年にチャーチルが下院で行った演説。これは意識的に「漢語」たるラテン語由来の単語を避けて行われたようだ。自分たちの本来の言葉である土着語を使った方が粗野な感じがして国民を奮い立たせることが出来る、という意図があったらしい。

そもそも英語の学問用語はみんなギリシャ・ラテンに由来する借用語だ。イギリス紳士なんていうと上品なおっさんみたいな印象を持つけど、ギリシャ・ローマの文物に触れる前まではジェントルマンも所詮は野蛮人だったわけですなー。感慨深い。

シンプルになってきた英語

文法の変化も興味深い。もともと英語には男性・中性・女性と名詞に性があり、冠詞の格変化も複雑だった。しかしそれらが取っ払われて今日のようなシンプルな構成になり、代わりに以前はドイツ語のように「主語+動詞+目的語」のような並べ方でも、「目的語+動詞+主語」のような並べ方でも構わなかった語順が、冠詞の格変化が無くなったため「主語+動詞+目的語」という順番だけに制限されるようになった。個人的にはドイツ語の格変化には苦労したので英語がこういうシンプルな構成なのはありがたい。英語が今日世界中で使われているのは、文法的にシンプルなことも少なからず影響してるんじゃないかなーと感じている。もちろん、イギリスが武力で世界の覇権を握ったからってのは確実なんだけど。

hが発音されなくなるかも

発音では英語からhの音が消えるかも知れないという指摘が興味深かった。hを発音しないといえばフランス語が有名だ。ジャン・レノが映画のなかで英語を喋るときは「he」を「イー」と発音している。フランス人ってのはおかしな奴らだよなぁなんて思って見てたけど、近い将来、英語だってそんな風になるかも知れないらしい。現実にロンドンのコックニー英語ではhを発音しないし、そもそもh音というのは不安定な存在らしいのだ。hは無声の摩擦音だが、他の摩擦音は、fにはvが、th(θ)(thankとか)にはth(ð)(theとか)が、sにはzが、sh(ʃ)にはgd(ʒ)と、それぞれの無声音と対になる有声音があるのだ。しかしhにはこれに対応する有声音がない。言語というものは文法的にも発音的にも安定を求めるので、こういった不安定な状況は好まれないのだそうだ。従ってイギリス人がhistoryを「イストワール」とかheを「イー」とかhello「アロー」とか言う日が来ちゃったりして!

綴りと発音の乖離

語学の勉強をしていると、「書いてある通りに読むのがドイツ語、書いてある通りに読まないのが英語、書いてない通りに読むのがフランス語」みたいな洒落をよく聞く。フランス語に比べたらマシだけど、ドイツ語に比べたら日本人にはとても発音しづらいのが英語だ。イギリス人も綴りと発音の乖離は気にしていたらしく、両者を一致させようと試みた人達もいたらしい。しかしオーストラリアでは "I come today" を「アイカムトゥダイ!」と発音してしまうように、英語圏でも地域によって発音には差があるし、sign - signatureのように発音と綴りを一致させてしまうと、動詞形と名詞形の単語のつながりが分かりにくくなる単語だってある。これは問題だ。そういうわけで仕方なく、今日の英語の発音は綴りと乖離したままなわけ。中学生諸君はこれからも綴りと発音のズレに苦しんでくれたまえ。

ビバヒル英語がスタンダードになる日が来る?

そういえば英語には二人称youの複数形がない。これはなかなか不便だ。もともとはyou自体が二人称の複数形だったらしいのだが、これが転化して二人称単数を意味するようになった。フランス語やドイツ語では二人称の複数形を二人称単数の敬称に使ったりするんだけど、英語でもそれが起こって、二人称複数のyouを二人称単数の "thou" や "ye" の敬称として使ううちに、もともとの二人称単数であったthouやyeを使わなくなってしまったみたいだ。

それで思い出すのがビバヒルで良く使われる "guys" という呼びかけ。もともとguyは男を指す言葉で「奴」とか「野郎」みたいな意味なんだけど、カリフォーニャのナウなヤング達はyouとくっつけて使うことで二人称複数を表現してるみたい。実際、外国を旅行していてガイジンの姉ちゃんに「Hi, guys」と言われたときは「本当に使うんだ!」と思ってびっくらこいたけど、guysかアメリカ南部英語の "y'all"(you all)、あるいは英連邦で広く使われる "youse" が二人称複数形として正式に組み込まれる可能性だってあるらしい。h音のとこでも書いたけど、言語は安定を求めるから、二人称だけ複数形がないのを嫌がるだろうってことですね。

後半はいまいちだった

ここら辺までは非常に興味深く読むことが出来たんだけど、後半はコンピューターやインターネットで英語が拡張されつつあるとか、女性や黒人、障害者を差別するニュアンスの言葉が言い換えられているというような時事的な話題が主で、正直面白くはなかった。何か間に合わせの印象さえあって。

しかし前半は十分に知的好奇心を刺激する内容で、なかなかわくわくしながら読み進めることが出来た。個人的には大母音推移(Great Vowel Shift)の理由が説明されてないのがスッキリしなかったが、Googleで検索したところ、Great Vowel Shiftについては英米人も「理由は分からない」と言ってるいるようなので、これはまぁ仕方なし。

受験生は受験が終わって英語を忘れないうちに読んでみるといろいろ楽しいかもね!

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 『パラダイス鎖国』を読んだ。読みやすい新書で、あっという間に読んでしまった。この本はアスキーから出てるアスキー新書だけど、コンピューターとか技術のみについて述べた本ではなく、日本社会全体について論じた日本論の本だと思う。日本社会を覆う閉塞感を打破するためのヒントがたくさん詰まっていると感じた。

 以下、個人的に興味深かった部分をメモ。興味がある人は是非買って読んでみてください。


日本人の意識の変化と、世界での存在感を薄くする日本

 日本人の海外志向が弱くなった(*1)。映画も音楽も地産地消。

 アメリカ社会での日本に対する印象も変容(ジャッパンバッシング→ジャパンパッシング→ジャッパンナッシング)。

日本メーカーはなぜ失速したか

 日本メーカーの伝統的な戦略は、

  1. 利益よりシェアを追求(*2)
  2. 採算割れの市場でもブランド認知度を高め、「グローバルブランドの確立と維持」

の二つ。

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 佐々木俊尚さんの本。dankogaiの書評を読んで、ついつい買って読んでしまった。ところでdankogaiは『iPhone 衝撃のビジネスモデル』で次のように書いている。(404 Blog Not Found:書評 - iPhone 衝撃のビジネスモデル

梅田がつき佐々木がこねしウェブ論本座して食らうは岡嶋か

 これは言い得て妙だと思う。ホープ梅田(©eigokun)も佐々木俊尚も、それぞれ評論家というか、技術者じゃないんだよね。ホープ梅田ってシリコンバレーで何やってるのか知らない。コンサルタント? 佐々木俊尚も、旧メディアに対する考え方とかは非常に同意するし、古巣の毎日新聞への取材(いわゆるがんだるふ問題)はすばらしいと思うんだけど、技術が伴ってない分、物足りなさを感じる。

 本書で佐々木氏はゲマインシャフトなど哲学的な抽象語や三島由紀夫の著作などを引き合いに出して論を進めていくんだけど、そういう部分は箔を付けるための飾りであるように思えてならなかった。正直無くてもいい。

 この本のキモの部分はやはり第一章の『フラット化するマスメディア』であると思う。正直これだけ読めばオッケー。しかも実はこの部分、CNET上の佐々木氏のブログに書いてあることが書籍化されているような感じだから、みもふたも無いことをいうと、それを読めばオッケーということになる。

 書籍化されるよりも、ブログで公開されるべき内容だったのではないかと思う次第。しかし再びdankogaiが『iPhone 衝撃のビジネスモデル』で引用しているように

Web2.0的なサービス、技術はある。だが、Web2.0的な収益モデルはない

のである。きっとブログで公開しても広告以外に著者に利益をもたらすものは何も無かっただろう。丹念に取材され、構想3年、執筆に3ヶ月かけて直接収益を得る方法が無いというのも、Web2.0の悲しい現実だ。

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 万城目学の『鴨川ホルモー』が面白かったので、Amazonでオススメされていた森見登美彦『太陽の塔』を読んだ。同じく京大生が主人公。

 主人公は別れた年下の彼女(才色兼備かつ天然系)のことが忘れられず、四六時中彼女を監視しているストーカーです。途中まで「これなんて俺?」って感じで、大学生の日常がリアルに著述されてて大変楽しめました。レンタルビデオ屋でエロビデオを借りるときの表現とかかなり面白い。大仰な文章が滑稽さを際だたせるのです。

 ただクライマックスが近づくにつれ幻想的な描写が増え、最後の方は純文学的で軽く意味分かりませんでした。馬鹿には難しかったです。

 巻末に本上まなみによる解説が付いています。著者が彼女の大ファンだそうです。作中に出てくる主人公の自転車の名前はまなみ号。僕も本上まなみさん美人だと思います。でも解説自体は全然いけてなかった。

 最近女の子に振られた人が読むと共感できる部分が多いかも知れません。妄想パワー全開の一冊です。根暗な渋谷直角?

ちなみに

 万城目学氏と森見登美彦氏は割と仲がよいようで、別冊文藝春秋9月号で対談しています。まるで学生トークみたいです。年が近いのでこの二人には親近感沸きます。万城目氏から森見氏に対する「18歳に戻ったとします。サークルの新歓に本上まなみそっくりのかわいい新鮮な女の子がやってきていて、何もアプローチしなければ二週間以内に彼氏ができそうです。さぁどうしますか?」という質問がとても面白かった。