全部 No Photoshop ですよ。自然てすごいですね。
戒め:「傍流から本流に対して文句を言う。が、テメエの運営するのは糞ブログ」
何よりぼくが一番戦慄を禁じ得ないのは、はてブのコメント欄で偉そうな事をホザいてるカスのサイトなりブログなりを見てみると、九割方それもカスだという部分なのです!(中略)傍流から本流に対して文句を言う。が、テメエの運営するのは糞ブログ。
私はこの人が言うところのネットイナゴでありゾンビであります。非常に反省しなければならないと思いました。言うは易く行うは難し。
こちらの記事も非常に興味深かったです。mixiを始めようとする人向けの記事ですが、ネットに限らず、あらゆるコミュニケーションにおいても当てはまる部分があると思います。
関門3 きみのこと、誰も見てないから
あなたのことなんて、誰も気にしていないから。mixiに自意識過剰は不要だから。
面白いブログを書くというのは難しいものです。たいていの世の中の人は、書き手が有名人でもない限り書き手の個人的な日常には興味がない訳なんですよね。よほどその人がすごい経験をしていれば話は別ですが。
Continue reading...官庁、企業などの端末からWikipediaの記事編集しても別にいいんじゃね?
当該人物・組織自身がWikipediaの記事編集してもいいんじゃないですかね。それも織り込み済みなシステムだと思うんだけど。当事者に都合の良いように書き換えられても、編集合戦が起こってまた書き直されるだけでしょ。
職場の端末でWikipediaにアクセスするのが問題だってのはその会社・官庁内部の問題であって、組織外の人間が騒ぎ立てる問題じゃないと思う。
MacBookは湯たんぽ
MacBookは湯たんぽ代わりになる。これはガチ。
森見登美彦 『太陽の塔』
万城目学の『鴨川ホルモー』が面白かったので、Amazonでオススメされていた森見登美彦『太陽の塔』を読んだ。同じく京大生が主人公。
主人公は別れた年下の彼女(才色兼備かつ天然系)のことが忘れられず、四六時中彼女を監視しているストーカーです。途中まで「これなんて俺?」って感じで、大学生の日常がリアルに著述されてて大変楽しめました。レンタルビデオ屋でエロビデオを借りるときの表現とかかなり面白い。大仰な文章が滑稽さを際だたせるのです。
ただクライマックスが近づくにつれ幻想的な描写が増え、最後の方は純文学的で軽く意味分かりませんでした。馬鹿には難しかったです。
巻末に本上まなみによる解説が付いています。著者が彼女の大ファンだそうです。作中に出てくる主人公の自転車の名前はまなみ号。僕も本上まなみさん美人だと思います。でも解説自体は全然いけてなかった。
最近女の子に振られた人が読むと共感できる部分が多いかも知れません。妄想パワー全開の一冊です。根暗な渋谷直角?
ちなみに
万城目学氏と森見登美彦氏は割と仲がよいようで、別冊文藝春秋9月号で対談しています。まるで学生トークみたいです。年が近いのでこの二人には親近感沸きます。万城目氏から森見氏に対する「18歳に戻ったとします。サークルの新歓に本上まなみそっくりのかわいい新鮮な女の子がやってきていて、何もアプローチしなければ二週間以内に彼氏ができそうです。さぁどうしますか?」という質問がとても面白かった。
ホームレスの川流れを通報する人や助ける人はそのうちいなくなるかも知れないと感じた
災害によって人が生きるか死ぬかということになったとき、見捨てるようなことはしないという建前を、まだこの国はもっているのである。
それが「建前」に過ぎないとしても、建前さえ存在しなくなってる国は、他にいくらでもあるだろう。
しかしこの建前が、そろそろ崩れ始める気配はある。
あれらの映像を流すニュースの報道を見ていて、ぼくはそう感じた。
あそこで報じられているのは「流されるホームレス」の姿であって、名前や住居をもった社会的に認知された「生きている人間」の姿ではないように感じられたからである。
同意。派遣労働とか偽装請負とかワーキングプアの実態を見聞するにつれ、競争に負けた人間は本当にゴミ扱いされるばかりだなと感じる。こんな世知辛い世の中でも、ホームレスのおっちゃんの命は救助されるんだと、少し意外な安堵を感じた。でもそのうち人間の川流れを見ても誰も通報もしないし、救助も行わない世の中がやってくるんじゃないか。救助の様子を流すワイドショーは川流れをおもしろがってるみたいに感じられた。「絶好の飯の種きたこれ」みたいな。ワイドショーが川流れに飽きた頃、通報や救助は行われなくなるんじゃないかと思う。
田舎を特別視するのは危ない
これは非常に危ないと思いました。かつて北朝鮮への帰還を促した「地上の楽園」報道みたいに。
阿蘇でこのような安心感を持てるのは、単に田舎だからではなく、お互いに助け合い、応援しあおうという人と人のつながり(ソーシャル・キャピタル)が、セーフティネットとして機能し始めているからです。そのつながりがあるからこそ、若者たちは阿蘇を挑戦の場として選び、定着していっているのです。
実力をつけ、自分らしい仕事を自分のものにするには時間がかかります。しかし、都会では、時間をかけて、しっかり育っていくのを許してくれません。若い起業家も若い会社員も成果を早く出し、出し続けていないと取り残されるような気持ちが起き、表面的な成果をとりつくろい、実力よりもアピールや広報に頼るようになってしまう人が多くいます。
セーフティネットは必要だと思うし、こういう意見には賛成しますけど、だからといって阿蘇が楽園なわけではない。
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