
金力が乏しいので黒や赤のたまごかけご飯を食べることができず、せめてもの抵抗としてカレー TKG にした(前日、カレーアドベントカレンダーに登録していてカレー作ってた)。カレー TKG 、大してうまいともいえず失敗だった。 TKG はやはり醤油が王道だと思う。去年の TKG の写真の方が圧倒的にうまそうに見える。基本に立ち返ることの大切さを学ばせてくれた一杯でした。
この記事は TKG Advent Calendar 2015 15 日目の記事でした。明日は Hiroki Tani さんです。

金力が乏しいので黒や赤のたまごかけご飯を食べることができず、せめてもの抵抗としてカレー TKG にした(前日、カレーアドベントカレンダーに登録していてカレー作ってた)。カレー TKG 、大してうまいともいえず失敗だった。 TKG はやはり醤油が王道だと思う。去年の TKG の写真の方が圧倒的にうまそうに見える。基本に立ち返ることの大切さを学ばせてくれた一杯でした。
この記事は TKG Advent Calendar 2015 15 日目の記事でした。明日は Hiroki Tani さんです。
このブログの Archive ページ、自分で作った Lokka Plugin でできているのだけど、ここを React を使って作ってみた。 React チュートリアルの写経の題材を自分のブログにした感じ。 CoffeeScript オワコンと言われて久しいけど Coffee で書いた。 JSX を CoffeeScript で書くときはバッククオートで囲むとよいという知見が得られた。
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クロアチア航空のチェックインカウンターでチェックインを済ませ、パスポートコントロールを経て飛行機に乗った。 EU 内の移動は通関的なものがないので非常に移動がスムーズ。まるで国内線に乗り込むかのような感覚だった。

飛行機は小型のもので、乗客はまばらであった。クロアチア航空は機内で配られる紙ナプキンが深紅でしゃれており、スッチーたちも感じが良く、エーゲ航空に比べて最高という感じしかなかった。飲み物はビールをもらったけど、 PAN というクロアチアのビールでとてもうまかった。

一時間半ほどでドゥブロヴニク空港に到着した。ドゥブロヴニク空港には迎えのハイヤーをお願いしてあった。空港はきれいで、迎えに来てくれていたドライバー氏は長身できちんとネクタイを締めていた。すべてがテキトーなギリシャとは全然違う。非常にかちっとしていた。ハイヤーはきちんと洗車されているベンツで、一世代前のものではあるが E クラスだった。ギリシャで現行 E クラスのタクシーに乗ったけど、おっさんの運転は雑だったし、車内は自家用車のように雑然としていて、クロアチアで乗ったハイヤーの方が断然快適だった。
クロアチアはあちこちに花が咲き乱れ、道路はきちんと舗装されており、街並みも整然としており、すべてがごちゃごちゃでゴミが散乱しているギリシャとは大違いだった。やっとヨーロッパの国にやって来た、という感覚があった。古代ギリシャ文明はギリシャでは継承されておらず、ギリシャ以外のヨーロッパ各国で継承されているのかなという感じがした。

ただドゥブロヴニクも森といえるような森林は存在せず、山は少し地肌が見えていていわゆるはげ山状態だった。降水量が少ないんだろうなぁ、と思った。
宿は旧市街から 1.5km ほど離れたヨットハーバー沿いにあるアパートメントだった。かつてチェコを旅行したとき、アパートメントに泊まって最高だったのでアパートメントにしてみたのだが、この選択は正解だった。非常に広くて景色が良く、シャワーのお湯の量に限りがあることを除けば快適そのものだった。


宿にチェックインしたのが 20 時過ぎだったので、旧市街に行くのはあきらめて宿の近くで日用品の買い物を済ませたあと食事をすることにした。この時点でクロアチアの通貨のクーナを持っていなかったが、スーパーでもレストランでもカードで支払いができたので問題がなかった。10 年前に訪れたチェコでもそうだったが、 EU に加入しているものの通貨をユーロに移行していなくてもユーロで支払えるところが多い。クロアチアもそんな感じで、 7HRK = €1 というレートで買い物することができる。


一日目に訪れたのは宿の近くにあった taverna Otto というレストランだったが、あとから調べるに tripadvisor でドゥブロヴニクのレストランで 6 位の店だった。クロアチアはマグロをよく食べる国だそうで、ツナとポーチドエッグのサラダを注文したら、表面を軽く火で炙った状態のマグロのタタキを使ったサラダが出てきた。シーチキンのようなものを想像していたので期待と違ったが、久々に口にする生のマグロが非常においしく感じられた。
ツナのサラダの写真は取り忘れてて、これは嫁さんが食べてた子牛のステーキだけど、ドゥブロヴニクあたりの料理は何でも炭火焼きして BBQ するのが一般的らしい。野菜も炭火焼きしてあって香ばしい香りがしておいしかった。

食事を終えて宿の前のヨットハーバーの公園を散歩すると、ユーゴスラヴィアからの独立戦争時に活躍したと思われる戦車や、迷彩塗装を施された軍用ボートが飾ってあった。ドゥブロヴニクは世界遺産であるにもかかわらず、独立戦争時にはユーゴスラヴィア連邦軍から砲撃を受け旧市街や城壁が破壊されてしまった。その戦争に勝利しての独立だったので、街の人々はこの独立に誇りを持っているんだろうなぁと感じた。
宿に戻って美しい港の夜景を眺めがら眠りについた。

ミコノス島で買ったパンなどで食事を済ませた。この日は嫁さんの体調が優れず、出かけるのが昼頃になってしまった。
まずは両替しないとバスに乗ることができないので、宿近くの銀行に入って両替を頼んだ。昨夜のハイヤーのドライバーによると、両替は銀行で行うのが一番レートが良く、手数料が必要ないとのことだった。銀行の窓口で両替を頼むと、確かにネットで出てくるのに近いレート( 1HRK = ¥18 )で両替できた。本当は両替にはパスポートが必要らしいが、宿のセキュリティボックスに忘れてしまっていた。しかし窓口の女性は融通の利く人で、次は忘れないでくれと言って両替してくれた。またクロアチア最高だと思った。
両替してからバスに乗って旧市街へ出かけた。旧市街へはバスで 5 分ほどで、アドリア海の景色を眺めながら向かうことができた。

旧市街のピレ門に着くと観光客でごった返しており、街は賑わっていた。とりあえず門の中に入り街を軽く見て回り、 Kindle で買った Dubrovnik ガイドの本で著者のお気に入りの店であるというところに行ってみた。すると日本人の先客があり、メニューに日本語もある。なんと地球の歩き方にのっていた。旅先で日本人と出会うと微妙な気分になるのでなるべく普通の日本人客がいないような場所で食事するのが好きなのだが(だから Kindle で英語のガイド本を買って読んだりしてた)、同じ店が地球の歩き方で紹介されているとは盲点だった。
ドゥブロヴニクは滞在時間が短かったので昼もいいのを食べようという方針で嫁さんと二人でお互い好きなものを頼んだので、会計は 530HRK ほどになり、昼なのに 1 万円近くになってしまった。ただこの店で食べた三種のチーズと生ハムは最高にうまくて、良い思い出になった。

この店で食事している間に、本当にここはヨーロッパかと思えるような激しい雨が降り始めた。日本のゲリラ豪雨のような雨だった。しかもドゥブロヴニクは断崖の縁にある街で、山の方に降った雨が一気に流れ込んでくる。レストランの外席は建物と建物の間の通路にある席で、雨が降るとこの通路を雨水が川のように流れていく。雨が上がるまで身動きすることができず、 1 時間半くらいこの店にいて雨が止むのを待った。

雨が上がってからは城壁に上がろうと入り口を探して旧市街をさまよったがどこにも入り口がない。同じように他の観光客の人々も入り口を探しているようだった。地図を見ているところを地元の人に声をかけられ、城壁に上るには入場料が必要なこと、入り口は二箇所と限られていることを教えてもらった。確かに地球の歩き方にもそのように書いてあった。大人一人 100HRK ほど払って城壁に入ることにした。一人 1800 円は高いとは感じたが、これに上らなかったらドゥブロヴニクに来た意味皆無なので金のことは考えずに上った。

城壁からの眺めは確かに最高で、アドリア海の真っ青な海と、ドゥブロヴニクのオレンジ屋根の街並みをこれでもかというほど堪能した。ドゥブロヴニクも暑いには暑かったが、ギリシャに比べれば湿度も適度にあり十分に過ごしやすかった。

城壁を一周するときにベビーカーを持って回ったのがつらかった。可能なら入り口で預かってもらいたかった。海外旅行にベビーカーを持って行くべきかどうかはかなり悩んだが、息子殿は抱っこひもで抱えるには大きすぎるほどに生育しており、ベビーカーで運搬するより他なかった。ただサントリーニなど足場の悪いところではかなり足かせになった。
城壁を一周するとへとへとに疲れ果てていたので、一旦宿に戻って休憩することにした。

宿のアパートメントには大きなテラスがあり、ジャクジーがあったのでジャクジーに浸かることにした。しかし日暮れ時のドゥブロヴニクにはすでに肌寒く、ジャクジーの温度がなかなか上がらずあまり楽しむことができなかった。

ジャクジーから出たあとはまた taverna Otto に行った。 tripadvisor ランキング一位の店に行けないかと予約を試みたが、今日と明日は満席でいっぱいと断られてしまった。つくづく滞在時間が短かったことが悔やまれる。
taverna Otto ではメニューにないのに息子殿用にポーチドエッグのみを出してくれと頼んだりして常連ぶるなどした。会計のときになって店主がやって来て、二日連続来てくれてありがとうと話をした。我々が日本人であることを告げると店主は興奮し始め、 3 月に日本を旅行したがサイコーだった、また行きたい、神戸牛食いたい、牛丼うまかった、築地サイコーだった、築地で買った魚介類をタイのホテルの冷蔵庫に忘れてきたことが悔やまれる、あdsふぁdsふぁdfjかlsdflぴおいれ、という話を延々聞かされた。母国ではない英語で良くもこうぺらぺら喋れるものだなぁと感心した。
我々と話すときはクロアチア人同士でも英語で話したりするし、クロアチアはかなり英語教育に熱心なのかも知れない。そういえばチェコのプラハの人々も英語が流ちょうだったことを思い出した。今回泊まったアパートメントのレセプションの女性たちもネイティブのように英語を流ちょうに話し、ギリシャ人よりも格段に英語でコミュニケーションをとりやすかった。
レストランを出てホテルに戻り、ヨットハーバーから最後の夜景を眺めて眠りに就いた。ドゥブロヴニクの Gruž の港は長崎の港に景色が似ていて親近感がわいた。

前日夕方に買ったロシア風のパンとコーヒーで朝食をとった。ドゥブロヴニクにはヴェネツィアの領地であった歴史があるのでイタリアの影響が強いのか、コーヒーはエスプレッソが主力のようだった。宿に備えてあるコーヒーを入れる器具は直火式のエスプレッソマシンしかなく、これでコーヒーを入れて飲んだ。クロアチアのスーパーで買ったミルクと割ってカフェラテにして飲んだけど、ミルクがすごく甘くておいしかった。ヨーロッパはどこも乳製品のクオリティが高い。適当な店で飲み食いしてもチーズやバターだけはまずいものにあたることがない。
チェックアウトして荷物を預かってもらい、再度旧市街へ向かった。土産物を買ったあとは、前日には乗ることができなかったケーブルカーに乗って Srđ 山に上り、街を見下ろした。ここには戦争博物館もあって余裕があれば見に行きたかったが、飛行機の時間が迫っていたので適当に写真だけ撮って降りることにした。山頂でニコンの一眼レフを持っていたアメリカ人のおっさんに写真を撮ってくれるよう頼んだら、水平もとれておらず残念な写真になってしまった。とほほ。

飛行機の時間が迫っていたため、山から下ったあとは急いで食事をした。なかなか店が決まらず、イタリア風の食事を出すピザ屋に入って食事をした。ヨーロッパはカプレーゼが安くて巨大なモッツァレラチーズが出てくるのが良い。

食事を済ませて急いで宿に戻り、荷物を受け取ってバス停に向かった。宿の最寄りバス停は旧市街行きのバスも空港行きのバスも止まるという非常に便利なバス停だったが、空港行きのバスがなかなかやってこずかなり不安になった。あと 5 分待って来なかったらタクシーに乗ろう、と思ったところでバスがやって来て何とか飛行機に間に合う時間で空港にたどり着くことができそうだった。運転手は親切で、ユーロしか持っていないが大丈夫か、と聞いても「 No problem 」と言ってくれてクロアチア最高だった。
ただこのバスの中で安堵のあまり眠ってしまったのが良くなかった。バスを降りるときに iPhone を車内に忘れてしまった。気がついたときにはもうバスは発車しており、しかもアテネに戻る飛行機の時間が迫っていたためバス会社に問い合わせることもできず、後ろ髪をひかれながらドゥブロヴニクを去ることになった。幸い iPhone にはパスコードロックをかけていたので悪用されることはないと思われるが、その後辞書代わりにも使っていた iPhone がなくなることは不便きわまりなかった。 foursquare でチェックインすることもできず、旅行の楽しみの半分くらいが吹っ飛んでしまった。


サントリーニ島からミコノス島への移動は3時間程度だった。乗船したのは Hellenic Seaways の Highspeed 4 という船で、高速フェリーのためデッキに出て外を眺めることができなかったが、船内は広く、売店もあり、エコノミークラスでも客席は足下が広々しており快適そのものだった。アテネ−サントリーニ間をフェリーで移動するのは時間がかかるので時間に余裕のあるバックパッカーとかでないと難しいかもしれないが、ミコノス−アテネ間であればちょうど良いと感じた。
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14 日夜 8 時に福岡を出発して羽田でカタール航空のアテネ行きに乗る。カタールで乗り換えてアテネに 15 日の昼に到着した。
アテネに着いてまずは現金を引き出そうと ATM に新生銀行の PLUS マーク付きカードを入れてみるが、引き出すことができない。 10 年前にヨーロッパを旅行したときは新生銀行のカードでドイツでもチェコでも、円預金を現地通貨で引き出すことができた。同じようにして現金を引き出そうと思い、 ATM にカードを入れるが、事前にインターネットバンキングかなにかで手続きを行っていないと、海外 ATM での引き出しができないようだった。そういえば一時期新生銀行のカードをスキミングして海外で不正に引き出すという犯罪が横行したので、何も設定してない場合は海外での引き出しができないようなルールに変わったのかも知れない。日本では羽田の三井住友銀行の両替所で €60 両替しただけだったのでユーロを現金でほとんど持っておらず、またギリシャの両替レートは日本で €1 = ¥141 だったものが €1 = ¥151 もして最悪のレートで、到着するや否や空港の到着ロビーで派手に夫婦げんかをした。
Continue reading...会社を辞めた。3年半在籍してた。
ペパボに入る前は凄いブラック企業で働いてて、 Subversion やめて Git 使いたいと言ったら会社辞めろと言われたりしてた。そんなときに蜘蛛の糸のように目の前に垂らされたのが Dazaifu プロジェクトの求人で、藁にもすがる思いで応募し入社したのだった。この辺は過去のエントリに適当に書いてあるので読みたい人は読んで下さい。
ペパボは働きやすくて、毎日18時になったらみんなさっと帰るし、21時過ぎに会社出ると最終退出者であることもしばしばだった。家庭の事情にも理解があって、育児休業をさせてもらったり、ばあちゃんの具合が悪いときには会社休ませてもらったり早めに帰ったりしてたし、ばあちゃん死んだときにはお花とかも出してもらった。労働環境の他にも年末の社員旅行とかプレゼン大会とか社内の催し物があったりして良い雰囲気だった。課長が女性エンジニアにセキュリティルームでセクハラしてたり社長が気に食わない奴はいきなりクビにしたりしてたブラック企業から移ってきた身にはほとんど天国だった。
なにより自分にとってよかったのが、インターネットが会社になったみたいなところだった。会社に @shikakun がいて、あとから @antipop さん( Mr. CTO!)とか @udzura さんとか面白インターネットコンテンツな人も入ってきて、自分が @morygonzalez として存在することが是認される感じがとてもうれしかった。
とはいえペパボでもそれなりに厳しいことはあって、そういうのは一昨年の闇アドベントカレンダーに書いたのでこれも読みたい人は読んどいてください。
社内ではおおよそ一年おきに異動していて FANIC => MuuMuuDomain => minne と渡り歩いた。そう、僕はいま CM やったりしてる minne の中の人だったのです。
3年半の間に PHP を書くこともあったけど、自分の指向性とかを汲み取ってもらい、概ね Ruby を書かせてもらった。ウィンドウズを使えと強要されることはなかったし、 Ruby は書きたい放題だし、毎日会社行くのが楽しかった。
最後にいた minne は本当に良いチームで、みんなでリーンキャンバス描いたりエレベーターピッチを考えたりして、どうやったらサービスが圧倒的に成長できるのかを真剣に考えてた。
エンジニアはみんなできる人たちで、特に初期から minne を支えていた @mizoR さんが凄く、ちゃんとコンピューターサイエンスのバックグラウンドがあるため文系の自分にはない視点で問題にアプローチしていて非常に勉強になったし、また歩く UNIX の哲学みたいな存在で、小さく作ってこまめにリリースし検証することの大切さを教えてもらった。(@mizoR さん作の rake_notification は神 gem なのでオススメです)
新卒入社の @keokent もできる奴で、モバイル端末へのプッシュ通知をサクッと作るしサービス愛も厚いし、風紀の乱れにもうるさくて、Tシャツの裾は常にズボンにインするように指摘されてた。
去年の4月に入社してきた @amacou さんも凄くて、 Ruby/Rails も Objective-C も両方書けて、出張申請とか経費精算さえできればフルスタックおじさんという感じだった。
ムームードメイン時代に仲良くなりプラチナサーチャーで女性ファン急増中の @モノクロメガネ(いけすかないのでリンクはありません) さんに助っ人で来てもらうこともあって、絶対間に合わないだろみたいな無理めなスケジュールでタスクが降ってきたときにもみんなでホワイトボード囲んでワイワイ開発して余裕で終わらせたりして最高だった。モノクロさんは隙あらば Go で Ruby のコードを置き換えようとするところ以外はエンタープライズ力も高いしスクラムマスター業もこなすナイスガイだった。本当にいけすかない。
何をやらせてもスピーディーにこなす若手ネット芸人 @hisaichi5518 さんとも物理的に距離がある状態で仕事したけど、とにかく作り上げるという力はさすがだと思った。チーフエンジニアの @hsbt さんのオラオラと詰めてくる感じの Pull Request もサイコーだった。チームのエンジニアの間では「 @hsbt さんが通ったあとには草の根一本生えない」とよく言ったものだけど、こういう人がいないとフレームワークや言語のバージョンアップとかインフラ構成の大胆な変革はできないことがよくわかった。そういえば @udzura さんという人とも働いたけど、ギャグが寒いこと以外は問題ないです。
デザイナーやディレクター、サポートメンバーも良い人ばかりで、昨日は送別会を開いてもらったんだけど、こんなに良いチームを去るのは残念で仕方なかった。写真はトデガールズに対抗して森井ガールズが結集している様子です。
福岡でウェブサービスの開発やってみたいけどどこで働けばよいかわからないインターネットをこじらせたウェブプログラマーの人はペパボの門をたたいてみるとよいと思います。
無名のウェブプログラマーです、このような記事を書いてお目汚しをし誠に申し訳ございません。
「次に行く理由」があるだけで、「辞める理由」はないのです。
僕も同じ気持ちです。
Kaizen Platform という会社で働きます。無事試用期間を乗り切れるのでしょうか。ご期待下さい。
いつかは別れがやってくることはわかっていたけど、ばあちゃんが死んだ。年明けに具合が悪くなって「一週間ばかり」のつもりで入院したら、末期の肝硬変であることがわかり、入院して3週間で亡くなった。91歳になったばかりだった。
自分にとってばあちゃんは特別な存在だった。親が共働きだったので保育園の迎えにはばあちゃんが来てくれていたし、夏休み冬休み春休みはばあちゃんと過ごす時間が長かった。中学生くらいまでばあちゃんの部屋に布団を敷いて寝てた。
大学を出て病気になり、治療のために実家に帰ってきてからは、ばあちゃんととにかくよく出かけた。竹田の岡城跡の桜、知覧の特攻記念館、久住の紅葉などなど、後期高齢者をいろんなところに連れて回った。ばあちゃんは親と友達の中間のような存在だった。 Flickr にはばあちゃんの写真がいっぱい上がっている。
入院後は休みの度に看病をしに帰省した。写真を見せてやろうと、これまでに自分が撮ったばあちゃんやひ孫たちの写真を大量にプリントして病室に持っていった。家にあった昔のアルバムも病院に持っていって見せた。
ばあちゃんの具合がよくて話ができるときには、ばあちゃんが子どもの頃の話や昔の話を聞いて iPhone に録音した。ばあちゃんの実家は旧士族でそこそこ金持ちだったため、ばあちゃんが赤ん坊の頃の写真があったりした。亡くなる二日前に子ども時代の写真を押し入れから引っ張り出して病室に持っていって見せたらとても喜んだ。
入院中、ばあちゃんは早く死にたいと言っていた。「ばあちゃんはいつ死ぬとじゃろか」と俺に聞くこともあった。みんなに迷惑がかからないように早く死にたいからご飯は食べたくない、とも言っていた。本人には病状は知らされてなかったので、最後まで自分の病気が何なのかは分かっていなかった。しかし助かる見込みはないということは分かっていたと思う(亡くなる前まで意思疎通はできていて、痴呆ではなかったから頭はハッキリしていた)。
平日会社に行っているときにはばあちゃんのことが気がかりで仕事が手につかなかった。自分はいったい何のために実家を出たのだろう。実家を出ずに家にいて地元で働いてればもっとばあちゃんの面倒を見られたし、最初に体調が悪くなったときに病院に連れて行ってもっと長生きさせてあげられたかもしれない。自分がいま置かれている現状を悔やむことが多かった。
火曜日の夜、11時頃ベッドに横になってうとうとしていたら母から電話がかかってきて、亡くなったことを知らされた。結局、死に目に会うことはできなかった。
若い頃は、何を勉強したいとか、どういう仕事に就きたいとか、どんな暮らしをしたいかとか、そういうのばっかりでどこの学校に行くか、どこで働くか、どこに住むかを考えてしまう。ずっと地元に残るということが考えられなかった。しかし実家の近くに住んで、家族が病気のときにはすぐ駆けつけられるのが一番こころ穏やかでいられるのではないかと思うようになった。どんな仕事をするか、どれだけの収入を得るか、どんな暮らしをするか、そういうことも人生の中で大切なことではあると思う。ただそのために自分の両親や祖父母の面倒を見ることが出来ないのは何か違うんじゃないかと考えるようになった。
ばあちゃんが入院している間、阿蘇山がとても勢いよく噴煙を上げていた。まるでばあちゃんの具合が悪くなるのに呼応するかのように黒々とした煙を上げ、阿蘇谷に火山灰を降らせた。葬儀の日は特にひどく、雪と見まごうばかりの灰の塊を降らせていた。
ばあちゃんの死を通じて、自分のルーツを深く考えるようになった。時を同じくして阿蘇の火文字焼きの中止と終了が発表された。子どもの頃、ばあちゃんと一緒に見た阿蘇の火文字焼きがなくなってしまう。ばあちゃんと一緒に阿蘇の習慣が失われたような気がして言い様のない寂しさを覚えた。
自分はばあちゃんが91年間住んでいた阿蘇を飛び出してどれだけの価値を生み出せたのだろう。ばあちゃんの死に目に会えなかったことに見合うだけの人生を歩んでいるのだろうか。