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パルテノン神殿

2015年6月22日

振り替え便は 8:10 と聞いていたので 6 時に起きて飛行機に乗る準備をした。 7 時前にチェックアウトして空港に向かうと、昨日見た顔の人たちが何人かいた。タクシー代の精算を済ませ、搭乗手続きをして飛行機に乗ると、エーゲ航空のスッチーたちは何事もなかったかのようなにこやかな表情を浮かべていた。

アテネには一時間足らずで着いた。なんとこの日は天気が悪く、アテネ到着時は雨が降っていた。

アテネ到着

前日にアテネの宿を手配できなかったため空港に着いてから空港の無料 WiFi を使って予約しようとしたが、アテネ空港の WiFi は 60 分間しか無料で使えず、結局空港のパソコンを使って予約した。

アテネ空港はギリシャ到着時に食事したときにめちゃくちゃ高くてどうしたもんかと思っていたが、空港の外に出て空港職員等で混雑するサンドイッチスタンドに入ると、 €2.5 で食べ物が買えた。ここでコーヒーを飲みながらほっと一息つくことができた。

その後メトロでアテネの街中へと向かう。アテネ空港は成田と同じで、名前こそアテネだけど全然アテネじゃない場所にある。電車で 40 分くらいかかった気がする。

Athens city view from Acropoli

アテネの市街についてまずびっくりしたのが、街並みのヨーロッパっぽくなさだった。道が広くて路上駐車の車がたくさんあるのはヨーロッパっぽいんだけど、道路の舗装は適当でゴミや動物の糞が散乱しており、マンションのすべての側面には汚らしいバルコニーがくっついていて植物やらなんやらをみんな好き放題外に出しており、非常に猥雑だった。ヨーロッパというより東南アジアにでも来たような景観だった。

Athens

またアテネはサントリーニ島やミコノス島に比べて圧倒的に緑が多く、湿度も幾分か高いようだった。普段は 6 月に雨が降ることはなく異常気象だと泊まった宿の主人は話していたが、モンスーン気候に慣れた身からすると、乾燥の激しいサントリーニ島やミコノス島は過ごしにくく、雨降りのアテネはとても過ごしやすく感じられた。

Athens

アテネの宿はアクロポリスなどといった主な観光地にも歩いて行ける場所にあるものを選んだ。 €107 だったが安くても一泊 €200 オーバーだったサントリーニ島からすると別天地という感じだった。部屋は広く風呂は豪華で、たっぷりと暖かいお湯のシャワーを浴びることができた。

宿にはチェックイン時刻よりも早く着いたので、荷物を置いて観光へ出かけた。レストランに入ってメニューを見るとサントリーニやミコノスの観光地レストランの値段に比べるとずいぶん安い。しかもハンバーガーを頼んだらパンが一枚でハンバーグが二枚のやつが出てきた。ギリシャ人、こんな経済観念だから経済崩壊するのでは、と思いつつ、アテネサイコーと叫びながら子牛のハンバーグを食べた。

パン一枚に肉二枚

食事のあとは街をうろつき、最初携帯の SIM を買った ΓΕΡΜΑΝΟΣ を見つけたのでプリペイド SIM のチャージができるかどうか聞いてみた。サントリーニ島のショップでは、追加チャージはできるが翌月にならないとできない、という説明を受けていた。しかしキャリアの COSMOTE のウェブサイトを見てもどこにもそのような記述はなく、おかしいなぁと思っていたのだった。 €6 で 500MB のチャージを頼み、携帯を出すように言われたので Pocket WiFi を出すと、「その端末ではこの SIM カードを使うことができない」と言われて一瞬雲行きが怪しくなったが、自分たちが持っている iPhone は SIM ロックがかかっていて Pocket WiFi 経由でないとインターネットに接続することができないことを説明すると「OK」と言って追加作業をやってくれ、再びインターネットにアクセスできるようになった。

その後街を散策し、子どもが喜びそうな蒸気機関車型の観光バスを見かけたので乗ってみることにした。大人一人 €5 で、アクロポリス周辺の主立った観光地を周遊でき便利だった。乗り降り自由らしいので乗り降りしてプラカ地区やシンタグマ広場に行ったりすることもできる。我々はその勝手を知らずに漫然と一周してしまってもったいなかった。

アクロポリス バスから見たアゴラ

バスに乗ったあとにパルテノン神殿に上ってみたが、正直なところ圧巻だった。今回の旅行ではアテネはスルーする予定だったがエーゲ航空がキャンセルになったせいでアクロポリスを訪れることができたのはある意味幸運だったかも知れない。

パルテノン神殿

パルテノン神殿を観光していて初めて知ったのだが、パルテノン神殿は風化であのように朽ちているのではなく、 17 世紀にヴェネツィアによる砲撃を受けてあのようになった、とのことだった。当時でもすでに 2000 年以上の歴史を経ていたパルテノン神殿を破壊するなんて罰当たりなことだと思ったが、 Wikipedia によると、当時ギリシャを支配していたオスマントルコは、ヴェネツィアもパルテノン神殿の歴史的価値に敬意を表して砲撃すまいと高をくくって女子どもを避難させ、アクロポリス内に弾薬庫を作って弾薬を貯蔵していたのだそう。しかしヴェネツィアは一切斟酌せずパルテノン神殿に砲撃を浴びせたらしい。

修復中のパルテノン神殿

そのような状況になったパルテノン神殿を修復しようという動きはギリシャ独立後の 19 世紀中頃からあって様々手を加えられているが、 1800 年代後半から戦前にかけての修復は、古代の手法を忠実に再現するのではなく、鉄を使って無理矢理修復するという手法で、そのせいでかえって他の部分に負荷がかかり、現在は 19 世紀から 20 世紀前半にかけて行われた誤った手法の修復で傷んだ箇所を正しい手法で直しているところなのだそう。

修復されたパルテノン神殿

そういえば順調に行けば今頃訪れていたはずのドゥブロヴニクも、一時はヴェネツィアによって支配され、イタリア文化を受容しているのであった。ヴェネツィアとは地中海沿岸でやりたい放題やってたんだなぁ。

パルテノン神殿をゆっくり時間をかけて観光したあとは、一旦宿に戻ってシャワーを浴びて休憩した。三人とも何を食べてもトマトとオリーブオイルとハーブの入っている地中海風の料理に飽きていて、汁付きの麺類が食べたいと、アジア料理の店を探してアテネ一番の繁華街のシンタグマ広場へと向かった。

遅い時間にわざわざやってきたのに嫁さんが目をつけていたアジア料理屋は看板を掲げておらず、あるはずの場所には別の中華屋があって営業していた。店の前でひとしきり夫婦げんかをしたあと、あきらめてこの店に入って中華料理を食べることにした。

この中華屋が正解で、酢豚もチャーハンも中華麺もどれもうまかった。変な香辛料は入っていないし唐辛子辛くもなく、日本人にとって非常に食べやすい味付けだった。青島ビールを三本飲んでも会計は €30 程度で、一食で €70 ほどかかっていたサントリーニ島と大違いだった。しかも店の女将の中国人が非常に親切で店も清潔で、まるで日本に帰ってきたかのようだった。

中華屋の麺

食事を追えて最終一つ前の地下鉄で宿に戻り、倒れ込むように眠りについた。

2015年6月23日

翌朝は宿を出る際に領収書の宛名書きの件で嫁さんが宿のレセプションともめて、そのせいで夫婦げんかをしてしまった。一旦別行動をとることにしたのだけど、一人でアクロポリスのベンチに腰掛けているとなんかいろいろどうでも良くなってしまって、嫁さんから届いていたメールを読んで昨晩食事をした中華屋のあるシンタグマ広場で合流することにした。

昨晩 0 時近くまでいた中華屋には同じ面々がいて店を営業していた。この人たちはよく働くなぁと感心しながら店に入って食事を注文した。ギリシャ人は働かないと日本のマスコミでは言われるけど、アテネのこの中華屋の人たちも、サントリーニ島のホテルの人たちも、朝早くから夜遅くまでとてもよく働いていた。実は EU の中でギリシャ人の労働時間は結構長い方だという記事もある。新聞やテレビで見るのと実際に訪れてみるのではずいぶん事情が異なるなぁという思いを強くした。

昨夜の店内には現地のギリシャ人の客しかいなかったが、この日の店内には中国人だらけだった。

中国人の観光客はギリシャにいっぱいいたが、不思議なことに彼らは昼間はそこかしこにいるのに、夜になると潮が引いたかのようにさっと姿を消す。それは見事なものだった。夜の街を出歩いて中国人の姿を見かけることはないし、盛り場に行っても夜に中国人の姿を認めることはできない。

ミコノス島で二日連続通ったレストランの面白ウェイター氏によると、中国人はあまり良い旅行をしていないそうで、一泊ずつ街を転々とするのだそう。ひょっとしたら毎朝早い時間に宿を出て次の街に向かわなければならないから彼らは夜の街に姿を見せないのかも知れない。

プラカ地区

食事のあとはシンタグマからプラカ地区の土産物屋を冷やかしたりしながら宿のある方向に向かって歩いた。途中土産物を買うため嫁さんとアクロポリスのあたりで別れ、自分は一人で宿まで預かってもらっていた荷物を受け取りに行った。

プラカ地区

地下鉄駅で嫁さんと合流して、再びアテネ空港に戻り、自分が行ってみたかったクロアチアのドゥブロヴニクに向かった。待ちに待ったときが来た、という感じだった。

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Little Venice

2015年6月19日

Santorini to Mykonos

サントリーニ島からミコノス島への移動は3時間程度だった。乗船したのは Hellenic Seaways の Highspeed 4 という船で、高速フェリーのためデッキに出て外を眺めることができなかったが、船内は広く、売店もあり、エコノミークラスでも客席は足下が広々しており快適そのものだった。アテネ−サントリーニ間をフェリーで移動するのは時間がかかるので時間に余裕のあるバックパッカーとかでないと難しいかもしれないが、ミコノス−アテネ間であればちょうど良いと感じた。

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フィラの景色

2015年6月15日

14 日夜 8 時に福岡を出発して羽田でカタール航空のアテネ行きに乗る。カタールで乗り換えてアテネに 15 日の昼に到着した。

アテネに着いてまずは現金を引き出そうと ATM に新生銀行の PLUS マーク付きカードを入れてみるが、引き出すことができない。 10 年前にヨーロッパを旅行したときは新生銀行のカードでドイツでもチェコでも、円預金を現地通貨で引き出すことができた。同じようにして現金を引き出そうと思い、 ATM にカードを入れるが、事前にインターネットバンキングかなにかで手続きを行っていないと、海外 ATM での引き出しができないようだった。そういえば一時期新生銀行のカードをスキミングして海外で不正に引き出すという犯罪が横行したので、何も設定してない場合は海外での引き出しができないようなルールに変わったのかも知れない。日本では羽田の三井住友銀行の両替所で €60 両替しただけだったのでユーロを現金でほとんど持っておらず、またギリシャの両替レートは日本で €1 = ¥141 だったものが €1 = ¥151 もして最悪のレートで、到着するや否や空港の到着ロビーで派手に夫婦げんかをした。

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Thira, Greece

結婚して新婚旅行に行ってなかったので、新婚旅行代わりに息子殿もつれて三人でギリシャとクロアチアに行ってきた。アテネまでの飛行機はカタール航空で、アテネからギリシャの島々への飛行機、フェリー、クロアチアへの飛行機、すべての宿泊は自分たちで手配した。いわゆるツアーではない旅行をしてきた。

航空券や宿の手配は結婚式の準備や住宅の建設と同じようにつらく、また旅行中は飛行機の欠航があり大変な思いをした。いまはみんな海外旅行は行ったことあると思うけど、家族で、しかも子連れで旅行に行くときには一人で行くときとは勝手が異なるということがわかったので、得られた知見をシェアさせていただきます。

1. 飛行機はホールチケットを買う

旅程に乗り継ぎが発生するような移動がある場合は、途中の遅延・欠航時のリスクを旅行者自身が負わないためにホールチケットにするのが良い。ギリシャのミコノス島からアテネを経由してクロアチアのドゥブロヴニクに移動する際、我々は個別にチケットを買っていたため、ミコノスからアテネへの便が欠航したときに発生した損害(アテネ => ドゥブロヴニクのチケットの予約変更費用)を自分たちで賄わなければならなかった。ミコノス => アテネ => ドゥブロヴニクを一つの航空会社を窓口にして買っておけば、遅延が発生したときの振り替えや代替輸送はチケットを購入した会社が責任をとって手配してくれる。

またドゥブロヴニクではボスニア=ヘルツェゴビナのモスタルという街への日帰りエクスカーションを予約していたが、飛行機の欠航により参加することができなかった。キャンセルを申請したが、キャンセル時の Refund がない代わりに安くなるタイプの予約を選んでいたため、返金してもらうことができなかった。数百円増しで事前キャンセルが可能になるタイプの支払いオプションもあったので、海外で日帰りツアーなどを日本から予約する場合にはそういうオプションを選んでおくのが正しいと思った。外国は日本ではないので何が起こるかわからない。リスクは極力負わない方がよい。

2. クレジットカードの付帯保険を過信せず海外旅行保険に入る

クレジットカードの付帯保険には飛行機遅延やロストバゲージの補償はついていない。学生旅行と違って子どもがいたりする家族での旅行では、飛行機に乗れなかったときに発生する被害額が大きくなりやすい(飛行機のチケットの変更手数料、宿のキャンセル料などなど)。ゴールドカードなど特殊な付帯保険があるカードを保持しているのではない限り、少々お金がかかっても海外旅行保険に入っておく方が良い。

3. 日本円を現地で両替しない

日本円をギリシャで両替しようとしたら恐ろしくレートが悪かった。羽田空港の国際線ターミナルには三井住友銀行の両替窓口があり、ここのレートは €1 = ¥141 だったが、ギリシャの両替レートは €1 = ¥151 と 10 円も悪かった。しかし最強なのはクレジットカードの海外キャッシングで、 JCB カードでキャッシングして ATM で降ろしたところ、 €1 = ¥139 で引き出すことができた。しかもこのレートは手数料込みである。キャッシングなので年率 18% の金利がかかってしまうので帰国後に迅速に返済する必要があるが、賢く使えば一番有利なレートでユーロが引き出せる。新生銀行の口座にある円預金も海外で現地通貨として引き出せてレートは悪くないはずなので活用してみるといいと思う。ただクロアチアに関しては円とクロアチアクーナの両替レートは決して悪くなかったので、渡航先によりけりかも知れない。少なくともギリシャの場合はキャッシングの方がはるかにレートが良かった。

4. tripadvisor でレビューを見て Booking.com で予約する

今回旅行をするまで知らなかったのだけど、 tripadvisor というサイトが旅行者向けの情報をたくさん提供していて、旅行者向けの食べログ的な地位を確立しつつある。このサイトで宿やレストランのレビューを読むことができる。また Booking.com という YAPC 2014 のスポンサーにもなってたりするサイトで宿を予約するのが良い。宿泊予定の宿について、地図が添付されたメールが送られてきて便利。実際に宿泊した人のレビューが読めるのもサイコーだ。

5. なるべく連泊する

ギリシャのサントリーニ島は宿泊費が高くて同じところに連泊できなかったため、一日一日宿を転々とした。しかしこうすると昼間の時間を宿で過ごすことができず、毎日チェックアウトしては次の宿にチェックインしての繰り返しになり、旅行というより移動になってしまう。少々コストがかかったり場所が悪かったとしてもなるべく同じ宿に連泊して街の散策を楽しむ方に力を注いだ方がよい。

6. 洗濯屋を利用する

日本人の感覚だと他人に洗濯を頼むということに抵抗があるかもしれない。しかし外国にはセルフサービスのコインランドリーは少ない。かといって手洗いで毎日洗濯をしていると寝るのが遅くなったりして観光する時間が削られてしまう。洗濯は洗って干して乾かして畳んでという作業にかなり時間をとられる。自分は今回の旅行でセルフサービスのコインランドリーが見つからず、仕方なく洗濯屋を利用してみたのだが、非常に快適だった。洗濯物の量に関係なく値段は €10 ほどで、きれいに洗って畳んでもらって 3 時間で仕上がった。洗濯してもらっている間は自分の身は自由なのでその時間を観光にあてることができ、非常に有意義だった。

7. 子どもを連れて行く

子どもを実家に預けて夫婦二人で海外旅行に行く、という選択肢もあったかもしれない。しかし二週間ほど外国に連れて行っただけでも息子殿はハローとかバーイとか言うようになったし、 "What's your name?" と聞かれて名前を答えるようになった。また子どもをきっかけに他の家族連れや現地の人と話すきっかけができたりす。ベビーカー(ベビーカーは和製英語なので stroller と言わないと通じない)を持って行ったりとか大変な部分はあるが、連れて行って良かったと思う。

8. 水を飲み炎天下を避ける

夏のヨーロッパには初めて行ったが、地中海沿岸地域の夏は湿度が低くて過ごしやすいに違いないと思っていた。確かに湿度は低く日陰は涼しくて過ごしやすいが、強烈な太陽と乾燥で、モンスーン気候に適応した日本人には非常につらかった。夏なのに唇がひび割れてリップクリームが欲しいと感じるのは初めてのことだった。意識して水を飲まないと確実に脱水症状を起こす。またギリシャの太陽は強烈で日も長いため、正午から午後 4 時くらいまでは飲食店に入るか宿で休むなどして炎天下に身を置き続けないようにしないと危ない。恐らくイタリアや南フランス、スペイン、ポルトガル、北アフリカも同じような気候だと思う。帽子やサングラス、日焼け止めも忘れずに。

9. 中学英語を復習する

英文でメールを書いたり英文を読んだり英語で人が話しているのを聞いたりするのはだいたいできるのではないかと思う。しかし話すのが難しかった。腹減った、ビール飲みたい、トイレ行きたい、これ買いたい、荷物預かっててちょんまげ、お釣りちょろまかしてんじゃねーぞこのタコ、飛行機欠航とかふざけんな金返せコノヤロー、みたいな英語は、英文のニュースを読んだりしてるだけでは話せるようにはならない。中学校の英語の授業で習うような英会話文が一番実用度が高い。英語の読み書きには自信がある人でも、旅行前は旅の英会話とかをさらっと学習してフレーズごと覚えといた方がいいと思った。

10. SIM Free の WiFi ルーターがあると便利

スマートフォンになれきった現代人は、日本にいるときと同じようにインターネットにアクセスできなかったら死んでしまうと思う。しかし日本以外の国でインターネットを使うとローミング料金が高額で帰国後にまいっちんぐになってしまう。いまは海外でもパケ放題になるようになったが、それでも一日 2980 円もして、一週間の旅行でも 20000 円オーバーになる。海外向けのレンタル WiFi ルーターもあるにはあるが、一日 880 円程度費用がかかったり、一部の国には対応していなかったりする。

日本以外の国はプリペイドの SIM カードを比較的安価に買うことができ、 SIM フリーの WiFi ルーターにそいつを挿して使うと現地で日本にいるときと同じようにツイッターやホェースブックが使えて便利。道に迷ったときにも Google Maps でさくっと検索できる。ただヨーロッパの観光地の飲食店には必ず無料の WiFi があるので、インターネット使うときには店に入ればよいと割り切れる人には必要ないかも知れない。自分は解約済みの EMOBILE の Pocket WiFi GP02 を所持していて、この端末は海外の SIM カードに対しては SIM ロックがかかっていなかったので、現地で購入したプリペイド SIM カードを挿入して使ってみた。非常に便利だった。

ただ iCloud のフォトストリーム同期を on にしていると、日本国内では 4G 回線や 3G 回線では同期を行わないフォトストリーム機能が、 iPhone からは WiFi ルーターも固定回線の WiFi も区別できないので同期を行ってしまい、データ通信があっという間に上限に到達してしまうので注意が必要。 旅行中はフォトストリーム同期は Off にしておくことが望ましい

なお WiFi ルーターは電池の消耗が激しいので Anker のモバイルバッテリーとチャージャーがあると高速に充電できて快適。


旅行して帰ってきた日の新聞にはギリシャデフォルト間近とか ATM で預金を引き下ろすために並ぶ人多数とか書いてあったけど、自分が現地にいたときには特に混乱もなく、ぎりぎりのタイミングで無事旅行できたのかなと思う。いまの時期にギリシャに行きたいと思う人は少数派かもしれないですけど、何かの参考になれば幸いです。個人的にはクロアチア最高でした。旅行記を別の記事として書きます。

| @労働

会社を辞めた。3年半在籍してた。

ペパボに入る前は凄いブラック企業で働いてて、 Subversion やめて Git 使いたいと言ったら会社辞めろと言われたりしてた。そんなときに蜘蛛の糸のように目の前に垂らされたのが Dazaifu プロジェクトの求人で、藁にもすがる思いで応募し入社したのだった。この辺は過去のエントリに適当に書いてあるので読みたい人は読んで下さい。

ペパボは働きやすくて、毎日18時になったらみんなさっと帰るし、21時過ぎに会社出ると最終退出者であることもしばしばだった。家庭の事情にも理解があって、育児休業をさせてもらったり、ばあちゃんの具合が悪いときには会社休ませてもらったり早めに帰ったりしてたし、ばあちゃん死んだときにはお花とかも出してもらった。労働環境の他にも年末の社員旅行とかプレゼン大会とか社内の催し物があったりして良い雰囲気だった。課長が女性エンジニアにセキュリティルームでセクハラしてたり社長が気に食わない奴はいきなりクビにしたりしてたブラック企業から移ってきた身にはほとんど天国だった。

なにより自分にとってよかったのが、インターネットが会社になったみたいなところだった。会社に @shikakun がいて、あとから @antipop さん( Mr. CTO!)とか @udzura さんとか面白インターネットコンテンツな人も入ってきて、自分が @morygonzalez として存在することが是認される感じがとてもうれしかった。

とはいえペパボでもそれなりに厳しいことはあって、そういうのは一昨年の闇アドベントカレンダーに書いたのでこれも読みたい人は読んどいてください。

社内ではおおよそ一年おきに異動していて FANIC => MuuMuuDomain => minne と渡り歩いた。そう、僕はいま CM やったりしてる minne の中の人だったのです。

3年半の間に PHP を書くこともあったけど、自分の指向性とかを汲み取ってもらい、概ね Ruby を書かせてもらった。ウィンドウズを使えと強要されることはなかったし、 Ruby は書きたい放題だし、毎日会社行くのが楽しかった。

最後にいた minne は本当に良いチームで、みんなでリーンキャンバス描いたりエレベーターピッチを考えたりして、どうやったらサービスが圧倒的に成長できるのかを真剣に考えてた。

エンジニアはみんなできる人たちで、特に初期から minne を支えていた @mizoR さんが凄く、ちゃんとコンピューターサイエンスのバックグラウンドがあるため文系の自分にはない視点で問題にアプローチしていて非常に勉強になったし、また歩く UNIX の哲学みたいな存在で、小さく作ってこまめにリリースし検証することの大切さを教えてもらった。(@mizoR さん作の rake_notification は神 gem なのでオススメです)

新卒入社の @keokent もできる奴で、モバイル端末へのプッシュ通知をサクッと作るしサービス愛も厚いし、風紀の乱れにもうるさくて、Tシャツの裾は常にズボンにインするように指摘されてた。

去年の4月に入社してきた @amacou さんも凄くて、 Ruby/Rails も Objective-C も両方書けて、出張申請とか経費精算さえできればフルスタックおじさんという感じだった。

ムームードメイン時代に仲良くなりプラチナサーチャーで女性ファン急増中の @モノクロメガネ(いけすかないのでリンクはありません) さんに助っ人で来てもらうこともあって、絶対間に合わないだろみたいな無理めなスケジュールでタスクが降ってきたときにもみんなでホワイトボード囲んでワイワイ開発して余裕で終わらせたりして最高だった。モノクロさんは隙あらば Go で Ruby のコードを置き換えようとするところ以外はエンタープライズ力も高いしスクラムマスター業もこなすナイスガイだった。本当にいけすかない。

何をやらせてもスピーディーにこなす若手ネット芸人 @hisaichi5518 さんとも物理的に距離がある状態で仕事したけど、とにかく作り上げるという力はさすがだと思った。チーフエンジニアの @hsbt さんのオラオラと詰めてくる感じの Pull Request もサイコーだった。チームのエンジニアの間では「 @hsbt さんが通ったあとには草の根一本生えない」とよく言ったものだけど、こういう人がいないとフレームワークや言語のバージョンアップとかインフラ構成の大胆な変革はできないことがよくわかった。そういえば @udzura さんという人とも働いたけど、ギャグが寒いこと以外は問題ないです。

デザイナーやディレクター、サポートメンバーも良い人ばかりで、昨日は送別会を開いてもらったんだけど、こんなに良いチームを去るのは残念で仕方なかった。写真はトデガールズに対抗して森井ガールズが結集している様子です。

森井ガールズ

福岡でウェブサービスの開発やってみたいけどどこで働けばよいかわからないインターネットをこじらせたウェブプログラマーの人はペパボの門をたたいてみるとよいと思います。

で、誰?

無名のウェブプログラマーです、このような記事を書いてお目汚しをし誠に申し訳ございません。

なんで辞めんの?

「次に行く理由」があるだけで、「辞める理由」はないのです。

株式会社ドワンゴに転職します(4年3か月ぶり2度目) - Kwappa談話室

僕も同じ気持ちです。

次なにやんの?

Kaizen Platform という会社で働きます。無事試用期間を乗り切れるのでしょうか。ご期待下さい。

| @技術/プログラミング

ExceptionNotification::Slacky

Rails とかで例外が発生したときに Slack に通知するやつ作った。 exception_notification という便利 gem のプラグインとして動く。

実は ExceptionNotification 本体に SlackNotifier あるんだけど、通知内容があっさりしてて自分たちのユースケースには合わなかった。 IRC 使ってた頃は同僚のスーパープログラマー @udzura さんが作った exception_notification-ikachan を使ってて、それと同程度のエラー通知が来るのを Slack で実現したかった。

世の中には Airbrake のような便利なサービスあって、エラーの統計情報とか取ってまとめて通知してくれたりするものもあるけど、甘えてはいけない。エラーが即 Slack に通知されることで、バグを放っておくと Slack のチャンネルがてんやわんや状態になって業務に支障が出るのでバグを直すインセンティブが生まれ、ソフトウェアの品質が向上していくのである。

| @雑談

and the spring goes on...

いつかは別れがやってくることはわかっていたけど、ばあちゃんが死んだ。年明けに具合が悪くなって「一週間ばかり」のつもりで入院したら、末期の肝硬変であることがわかり、入院して3週間で亡くなった。91歳になったばかりだった。

自分にとってばあちゃんは特別な存在だった。親が共働きだったので保育園の迎えにはばあちゃんが来てくれていたし、夏休み冬休み春休みはばあちゃんと過ごす時間が長かった。中学生くらいまでばあちゃんの部屋に布団を敷いて寝てた。

大学を出て病気になり、治療のために実家に帰ってきてからは、ばあちゃんととにかくよく出かけた。竹田の岡城跡の桜、知覧の特攻記念館、久住の紅葉などなど、後期高齢者をいろんなところに連れて回った。ばあちゃんは親と友達の中間のような存在だった。 Flickr にはばあちゃんの写真がいっぱい上がっている。

入院後は休みの度に看病をしに帰省した。写真を見せてやろうと、これまでに自分が撮ったばあちゃんやひ孫たちの写真を大量にプリントして病室に持っていった。家にあった昔のアルバムも病院に持っていって見せた。

ばあちゃんの具合がよくて話ができるときには、ばあちゃんが子どもの頃の話や昔の話を聞いて iPhone に録音した。ばあちゃんの実家は旧士族でそこそこ金持ちだったため、ばあちゃんが赤ん坊の頃の写真があったりした。亡くなる二日前に子ども時代の写真を押し入れから引っ張り出して病室に持っていって見せたらとても喜んだ。

入院中、ばあちゃんは早く死にたいと言っていた。「ばあちゃんはいつ死ぬとじゃろか」と俺に聞くこともあった。みんなに迷惑がかからないように早く死にたいからご飯は食べたくない、とも言っていた。本人には病状は知らされてなかったので、最後まで自分の病気が何なのかは分かっていなかった。しかし助かる見込みはないということは分かっていたと思う(亡くなる前まで意思疎通はできていて、痴呆ではなかったから頭はハッキリしていた)。

平日会社に行っているときにはばあちゃんのことが気がかりで仕事が手につかなかった。自分はいったい何のために実家を出たのだろう。実家を出ずに家にいて地元で働いてればもっとばあちゃんの面倒を見られたし、最初に体調が悪くなったときに病院に連れて行ってもっと長生きさせてあげられたかもしれない。自分がいま置かれている現状を悔やむことが多かった。

火曜日の夜、11時頃ベッドに横になってうとうとしていたら母から電話がかかってきて、亡くなったことを知らされた。結局、死に目に会うことはできなかった。

若い頃は、何を勉強したいとか、どういう仕事に就きたいとか、どんな暮らしをしたいかとか、そういうのばっかりでどこの学校に行くか、どこで働くか、どこに住むかを考えてしまう。ずっと地元に残るということが考えられなかった。しかし実家の近くに住んで、家族が病気のときにはすぐ駆けつけられるのが一番こころ穏やかでいられるのではないかと思うようになった。どんな仕事をするか、どれだけの収入を得るか、どんな暮らしをするか、そういうことも人生の中で大切なことではあると思う。ただそのために自分の両親や祖父母の面倒を見ることが出来ないのは何か違うんじゃないかと考えるようになった。

ばあちゃんが入院している間、阿蘇山がとても勢いよく噴煙を上げていた。まるでばあちゃんの具合が悪くなるのに呼応するかのように黒々とした煙を上げ、阿蘇谷に火山灰を降らせた。葬儀の日は特にひどく、雪と見まごうばかりの灰の塊を降らせていた。

ばあちゃんの死を通じて、自分のルーツを深く考えるようになった。時を同じくして阿蘇の火文字焼きの中止と終了が発表された。子どもの頃、ばあちゃんと一緒に見た阿蘇の火文字焼きがなくなってしまう。ばあちゃんと一緒に阿蘇の習慣が失われたような気がして言い様のない寂しさを覚えた。

自分はばあちゃんが91年間住んでいた阿蘇を飛び出してどれだけの価値を生み出せたのだろう。ばあちゃんの死に目に会えなかったことに見合うだけの人生を歩んでいるのだろうか。