一月か二月前、NHKの『そのとき歴史が動いた』を見ていたら、西南戦争の田原坂について取り上げられていた。小さな頃、西南戦争フリークだった俺は興味深く視聴することが出来た。
西南戦争は薩摩の旧士族による反乱で、征韓論で敗れて下野していた西郷隆盛が士族たちに担ぎ上げられて指揮をとった日本最後の内戦である。結局西郷軍は熊本までしか北上できず、東京に趣いて政府をやっつけるという目的は達成できなかった。
西南戦争一番の激戦地が熊本県の田原坂というところである。北から西郷軍を鎮圧にやってきた政府軍は苦戦する。政府軍が苦戦したのには地理的な条件など様々理由はあるのだが、一番大きいのは徴兵制で集められた軍人たちの士気であったらしい。
農家の次男坊三男坊が徴兵で集められて戦争をしにやってきても、江戸時代から戦うことばかりを考えて生きてきた鹿児島の武士に敵うはずがなかったみたいである。例えば銃を撃つにしても、政府軍の兵士は最新式の銃を支給されているにもかかわらず、恐ろしがって物陰から手だけ出して撃つため全く命中しない。一方で薩摩軍は立ってしっかりと目標を見定めて撃つので命中しまくる(「薩摩の立ち撃ち」といって恐れられたらしい)。ひとしきり銃を撃ったあとの白兵戦になるともう全く官軍はだめだったらしい。指揮官が突撃を命じても百姓の息子たちは逃げまくったそうである。
薩軍の勇猛果敢な斬り込みで多くの死傷者を出したため、官軍内に「こちらも武士で対抗してはどうか」という意見が出たらしい。その頃の警察は旧士族で構成されていたので、刀を使うことの出来る警官を戦場に投入してはどうかということである。
軍を指揮していた山県有朋はこれに抵抗する。というのは山県は徴兵制の提唱者で、せっかく軍事部門から武士を閉め出して近代的な軍隊を創ろうとしているところなのに、薩軍の鎮圧に武士の手を借りることになれば徴兵制が崩壊してしまう。山県は下級武士の出身で、幼い頃から結構苦労をしているようである。それで既得権益にしがみつく士族たちのことを個人的にとても憎んでいたらしい。
しかし山県が渋っている間にも死傷者は増え続け、ついに山県は警察隊の戦場投入を決断する。ただし軍隊としてではなくあくまで警察官として。彼らに銃は与えられず、刀だけで薩軍と戦うことになった。その為抜刀隊と名付けられた。
抜刀隊には旧会津藩出身者が多かったため、戊辰戦争の恨みを晴らそうと凄まじい勢いで薩軍に斬りかかったらしい。「戊申の仇討ち」と言って斬りかかった者もいたとか。これが成果を出し、薩軍は敗走。西南戦争は官軍の勝利に終わる。ただし抜刀隊にも相当の被害が出たようで、全滅した部隊もあった。
戦いの結果を見て、山県は近代的な装備だけでは強い軍隊を創ることは出来ないことに気がつく。薩軍が強かったのは西郷というカリスマの為に命を捨てるという覚悟があったから。軍人勅諭を発布して天皇を軍隊の精神的支柱とし、軍人の士気向上に努めたのである。
だがしかし、この精神を重んじる風土が日本を悲惨な戦争に推し進めたこともまた事実であると思う。精神主義が兵士の命を軽んじる土壌となり、特攻や玉砕を生み出したのだろう。西南戦争がその後の日本の行く末を決定づけたともいえる。薩軍がもう少し弱かったら、日本はノモンハン事件あたりで刀を鞘に納め、今頃アメリカの51番目の州になっていたかも知れない。
参照URL http://homepage1.nifty.com/sagi/sonotoki.html http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2005_06.html#05