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おもしろかった。 Twitter 、 CEO がコロコロ交代してて誰が中心人物なのかよく分からなかったがだいたいわかった。成立の過程が結構複雑で、 Podcast 配信会社だった Odeo を Noah Glass が創業し、 Blogger で一発あてたあとの Evan Williams が出資して会社を乗っ取り、 Evan Williams に憧れて入ってきたアルバイトの Jack Dorcey が Noah Glass とブレインストーミングして Twitter の原型を生み出し、 Odeo を飛び出して Twitter という会社を創業し Jack Dorcey が最初の CEO になる、という感じ。 2007 年から 2008 年頃にかけて自分が面白おかしく使っていた Twitter の中では群像劇が繰り広げられていたことがわかり興味深かった。

特に興味深かった箇所は以下で、自分も 2008 年頃、実家に住んでて周りにインターネットのことを話せる友だちはほとんどいなかったけど、 Twitter 越しにインターネットユーザーと交流することができて孤独を癒やされていた気がする。

 このステータスは、その場にいない人々を結びつけるのに役立つ。どんな音楽を聴いているか、いまどこにいるかということを、共有するだけではない。人々を結びつけ、孤独感を癒すことが重要なのだ。パソコンの画面を見つめているときに、どんな世代でも味わう感情を、消し去ることができる。ノア、ジャック、ビズ、エブは、そういう感情を味わいながら成長し、パソコンのモニターに安らぎを求めた。結婚生活と会社がだめになりつつあるとき、ノアはその感情を毎夜味わっている。孤独感を。

 エブがブロガーに熱中した原動力も、そういう感情だった。アパートメントに独りでじっと座り、孤独で、友だちもなく、キーボードを通じて世界とつながっていた。何年も前にビズが母親の家の地下室でブログをはじめた理由もおなじだ。ジャックもおなじ理由から、セントルイスにいるころにライブジャーナルのアカウントを取り、掲示板をうろついて結びつきを求めている人々とやりとりするために、コーヒーショップで何時間も粘った。ステータスという構想は、そういったことすべての解毒剤になり、孤独感を癒せるかもしれない、とノアは考えた。

ニック・ビルトン. ツイッター創業物語 金と権力、友情、そして裏切り (Japanese Edition) (Kindle Locations 1017-1026). Kindle Edition.

ただその後、 Evan Williams が CEO になって Twitter はステータス共有(投稿欄のプレースホルダーは "What are you doing?" )から情報発信メディア(投稿欄のプレースホルダーは "What's happening?" )への変革を図った。個人のステータスではなく、その人の周囲の状況を伝えて欲しいということだ。確かに 2010 年くらいから Twitter の様子が変わったように思う。東日本大震災のあとは日本の Twitter もニュース寄りになっていって、 2008 年頃のジャンプ放送局のような雰囲気はなくなってしまった。

Twitter はビジネスとしては成功したが、創業者たちはお互いの人間関係を悪化させ、大事な友人を失いながら莫大な富を手にした。最終章に出てくる、ビズ・ストーンが貧乏だった時代のエピソードがとても心温まる。この部分だけでも読んで良かったと思った。


Noah Glass 、 Twitter の最初期を支えた人物だと思うけど会社を追い出されて Twitter 社の歴史からもいなかったことにされ、ひたすら可哀想。おまけに Noah の Twitter アカウントは「不審なアカウントです」と表示されたりする。

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世界は村上春樹をどう読むか

評価 : ★★★★☆

村上春樹の小説の翻訳者達が東京に集まって開かれたシンポジウムを書籍化したもの。面白かったです。

例によって印象に残ったところを過剰書き的に書き出しながら書いていきます。

翻訳先の国の発展度に応じて訳が変化する

中国語圏では台湾や大陸、香港とそれぞれ別人によって訳されたバージョンが存在するらしい。それで訳され方が異なるのだとか。例えばノルウェイの森で主人公が夜中の新宿の喫茶店でトーマス・マンの『魔の山』を読んでいると二人組の女の子がやってきて相席になるシーン。ここで主人公はカフェオレとケーキを注文するのだけど、台湾版ではカフェオレが何であるかの注釈付で訳され、大陸版では「コーヒーとハンバーガー」と訳されてしまっているらしい。これから分かることは、少なくともノルウェイの森が翻訳された時点で台湾ではカフェオレはまだ一般庶民になじみが深いものではなく、中国大陸では終夜営業の喫茶店に入ってカフェオレとケーキを頼むというニュアンスが読者に伝わらないため、カフェオレはコーヒーに、ケーキはハンバーガーに置き換えられたのだろう、ということ。文化的社会的な背景から直訳が難しい箇所があるというわけ。例えば村上作品にはジャズのレコード名が沢山出てくるが、中国語にはカタカナがないため、またロシアではジャズの知名度自体が高くないので翻訳者は訳すときに難儀するらしい。この辺の事情話は非常に興味深かった。旧共産主義国ではジャズに限らず、冷戦時代の映画やロック、ポップミュージックなどのバンド名を書き連ねてもニュアンスが伝わらないだろう。だからといって作中の固有名詞を好き勝手なものに変えてしまってはまずい。例えば僕が村上春樹の短編の中で好きな「ファミリー・アフェア」(『パン屋再襲撃』に収録されてる)にはホセ・フェリシアーノフリオ・イグレシアスが頻繁にネタキャラとして登場する。ダメな音楽、ダサい音楽の象徴として登場するのだ。ホセ・フェリシアーノフリオ・イグレシアスは『夜のくもざる』という短編集の「フリオ・イグレシアス」の中にも登場する。これがめっぽう面白いのだけど、もしこれが適当に他のアーティストに置き換えられると印象が変わってしまうだろう。僕は個人的にはホセ・フェリシアーノを現代のアーティストで置き換えるとしたらリッキー・マーティンなんかが良いんじゃないかと思うんだけど、村上春樹はこの辺にはかなりこだわりを持ってチョイスしていると思うから、うかつに記号をすげ替えるわけにはいかないだろう。翻訳者の苦労が想像できる。

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評価 : ★★★★☆

面白かったです。日本占領下のシンガポールを舞台にした小説。英軍の要塞跡などは去年旅行したときに訪れたし、博物館の史料も食い入るように見ていたので旅行したときのことを思い出しながら読むことが出来た。

主人公はシンガポールで暮らす台湾出身の青年梁光前。当時台湾は日本の植民地だったので梁光前の国籍は日本であり、シンガポールでは日本人貿易商桜井が経営する会社で貿易事務に携わってる。社長一家とは親しい間柄で、社長の息子で同い年の幹夫と、幹夫の妹摩耶とは東京で一緒に暮らしたことがある仲。実は梁光前は摩耶に惚れてたりする。

戦争が始まって桜井家の人間は敵性市民ということで英軍に捕らえられ監獄に収容されるが、主人公は香港人のふりをして収容を逃れる。しかしスパイの嫌疑をかけられて英軍と警察から追われる身になり、しょうがなく抗日華僑義勇軍に参加してマレー半島を南進する日本軍と戦うことになる。一方で日本軍がシンガポールを陥落させた後の軍政下で主人公は再び日本側についてしまうので華僑の反感を買ってしまう。果たして無事終戦を迎えられるのか? 梁光前の運命やいかに? っていう内容。

冒頭から一杯伏線が仕掛けてあるんだけど、連載小説だったのかな、伏線が消化されることなく物語が終わってしまった。「え、あの登場人物は何だったの? ちょい役なら名前与えなくても良かったんじゃないの?」ってのが多い。当初の構想より大幅に物語が圧縮されてる印象。

著者はシンガポールに住んでたのかな、っていうくらいシンガポールのことに詳しい。戦争中のシンガポールのことなんてシンガポール人でも知らないだろうことを詳細に調べて書いている。インターネットもWikipediaもない時代にこれだけ調べ上げるのはさぞ骨の折れる作業だったろうなーと思った。

あと主人公が日本人摩耶と中国人の娼婦麗娜との間で揺れ動く恋愛模様も描かれる。主人公は摩耶のことが好きで香港人のふりをしてシンガポールにとどまり続ける。彼女のために無理をするんだけど、結局摩耶には見向きもされない。一方麗娜は梁光前は自分に気がないってことを分かっていながらも梁光前に献身的に尽くす。で、ネタバレさせていただくと最終的には梁光前と麗娜の二人は幸せになるんだけど、娼婦と結ばれるのってぶっちゃけどうなんだろう、って僕は思う。いや、娼婦だから差別するとか口を利かないとか物を売らないとかそんなんじゃなくて。普通に近所に娼婦がいたからって無視したりとかはしませんよ。ご近所さんとしては普通に付き合う。しかし、娼婦を嫁さんにするとなると話は別だ。「娼婦や遊女を身請けして嫁にするのが男の中の男、かっちょいい!」みたいな風潮には疑問を覚える。女の子とかは複雑な事情のある女も無条件で受け入れる男のことが好きなんだろうけど、いやぶっちゃけそういうのは難しいよ。商売で他の男とセックスしてる(してた)女の人を嫁さんに出来る度量があるかって言われたら正直僕はない。性行為ってのは生殖という人間の本質に関わる部分だから、なかなかすんなりと自分を慕ってくれるからという理由で売春婦と結婚することは難しい。もちろん女の人が売春に至るには複雑な事情があることは想像できるんだけど。ああなんか書いてることが訳分からなくなってきた。

まとめると、シンガポールに住んでたことがある人とか旅行したことがある人にはお勧めです。

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零戦と戦艦大和という本を読んだんですけど、これがなかなか面白かったです。一見、軍国主義万歳みたいなタイトルですが、実際はなぜ日本が戦争に負けたのかを識者が座談会形式で討論しています。これがまたとない日本社会論で、『パラダイス鎖国』にも通じる内容でした。

「今日の日本は64年前の日本とは全然違う、いまの日本はあんな無謀な戦争はやらないし、軍国主義は既に過去のものだ」。多くの人がそう思っているんじゃないでしょうか。僕もそう思っていました。でも読めば読むほど、戦時中の日本軍の組織は今日の日本社会と符合する部分が多くてびっくりしました。

以下印象に残った点。

  • 戦時中、アメリカの方が戦況は優勢だったのに、アメリカ海軍は26人も指揮官を更迭した。一方で日本海軍はゼロ。敗軍の将に花道を飾らせようと据え置いたりするから、当然また負ける。末端の兵士には厳しかったかも知れないが、上層部には甘い組織だったのではないか?

  • 日本軍はカタログ偏重主義で、兵器の開発にもカタログ値が良好であることを望む。しかし本当ならセットで考えなければならない人員の配置・交代など運用方法を軽視するから、零戦や戦艦大和がどれだけ優れていても有効活用できないままに終わってしまう。大和の主砲は世界最強の威力を誇ったが一隻も敵を沈めていない。

  • 零戦の成り立ちはまるで日本のガラパゴス携帯のよう。海軍及び軍需産業は多品種少量生産が好きで、部品の標準化などを怠っていた。結果、大量生産ができず、十分な数の兵器を生産することが出来なかった。この伝統は今日の日本の家電メーカーにも脈々と受け継がれている。

  • 日本の兵器は零戦など高性能なものもあったが、使いこなすには使い手の熟練が必要だった。対してアメリカは操作が単純で新兵でも簡単に使える兵器を大量生産した。

  • 日本の軍人は武士道精神を好んだが、同じ武士道でも戦国時代に書かれた宮本武蔵の『五輪書』と江戸時代中期に書かれた『葉隠』ではまったく定義が異なり、『五輪書』では戦場でいかに敵を倒して生き延びるかが書かれているが、『葉隠』では「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」など、世襲官僚としての処世術が書かれている。後者の美意識を規範にした日本軍は人命を軽視するようになった。

  • 誤った武士道の解釈により軍人が防御機構を要望することは恥とされ、零戦の装甲は薄かった。結果多くのベテランパイロットと機体を無駄に失った。

  • アメリカ軍は『プライベートライアン』などで描かれたように行方不明者が出たときに必死に捜索するなど個々の兵士を守ろうとするが(民主主義国家の軍隊)、日本軍は兵士の人命を粗末にあつかった(独裁国家の軍隊)。これが彼我の士気の違いにつながったのではないか?

  • 日本軍は一度作戦計画を練ったらそれが完璧だと思い込み、万一作戦がうまくいかなかったときのことを考慮しない傾向にあった。戦艦大和の装甲は世界一だったが、もし装甲が破られたときにどうするか(ダメージコントロール)が不十分だった。

  • 戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と言われたため日本軍に捕虜は存在しないことになり、万一捕虜になったときにどうするかといったことが兵士に教えられなかった。結果、捕虜になって絶望的な気分になり、アメリカ側に重要な情報を話してしまった将校もいた。

などなど。憲法が変わったり主権が国民に移ったり自衛隊がシビリアンコントロールに置かれるようになったり、外側は戦前から変わったと思うけど、中身があまり変わってないような気がしますね。非常に興味深い本でした。

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 表紙と邦題(『僕らは、ワーキング・プー!』)はつまらなさそうですが、結構楽しめました。朝日新聞流に言うところの“ロストジェネレーション”が主人公です。舞台はイタリアミラノ。27歳の主人公クラウディオはボッコーニ大学というミラノの有名大学の経済学部を卒業するもまともな職に就けず、いまは契約社員として糊口をしのいでいます。契約先の企業は世界的企業だけど、待遇は悪く給料は正社員の四分の一。ボーナスはもちろんなく、月給1,000ユーロだけで彼は生活していかなければなりません。職場の近くでは外国人観光客(恐らく日本人)がやってきてブランド品を買いあさるけど、月収1,000ユーロの彼にはそんな浪費は夢のまた夢。ランチタイムの度に財布と相談しなければならないような、非常に切り詰めた生活を送っています。徹頭徹尾金の話。でも全然ケチくさい感じがしなくて、同じ年頃の人間として、非常に共感しながら読むことができました。

 もともとイタリアではウェブで連載されていた小説で、爆発的人気を得て書籍化されたそうです(Generazione 1.000 Euro - La prima Community dei "Milleuristi & (S)Contenti")。イタリアの若者も非正規雇用にあえぎ、困っているのでしょう。フランスでの若者の暴動などは記憶に新しいかと思います。非正規雇用、低賃金であくせく働く若者というのは日本だけの現象ではなく、世界の先進国に共通するものなのでしょう。これらはグローバリゼーションのせいで各国経済の結びつきが強くなったために生じる現象と言えるでしょう。企業は安い中国製品に打ち勝つためにコストカットしなければならない。正社員を削減し、外注のオンパレード。その結果として非正規雇用者が増えるわけです。

 物語中に登場する小道具が非常に現代的なところが良かったです。SkypeやP2Pファイル交換、プリペイド式携帯電話、SMSなどなど、欧州人の若者が日常的に利用しているであろうサービスが出てきて、今っぽいです。小説のなかでMP3という単語を見たのは初めてかも知れません。ただ、これら現代若者ジャーゴンが分からない一般読者のために、本文中でいちいち主人公が解説を述べるのが間延びした印象を与えてイマイチです。イタリア語版でもああいう野暮ったい解説文が挿入されていたんだろうか? 日本語版独自仕様な悪寒。

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AERA '06.6.5 病院で今週号のAERAを買って読んでいたら、バックナンバーのページに興味深い紹介文が。AERA '06.6.5 では、「昔の『春樹』に会いたい」という記事があったようだ。これは読まねばなるまい。バックナンバーを手に入れようと病院最寄りのASAに赴くも、「AERAのようなもんは置いてない」とあしらわれる。しょうがないので購入を諦め、漸く県立図書館にてバックナンバーにありつきました。

 うーん、やっぱり僕だけじゃないわけですね。皆さん「昔の方が良かった」と思っておられるようだ。村上春樹と同年代でリアルタイムに読んでいた人、40代の青春時代を春樹作品とともに過ごした人、30代のバブル世代、10代、20代の若者、各々の年代のハルキストたちはビールを飲み、ぴりりとからしのきいたハムとキュウリのサンドウィッチを囓る「僕」を求めているようです。

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