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いつかは別れがやってくることはわかっていたけど、ばあちゃんが死んだ。年明けに具合が悪くなって「一週間ばかり」のつもりで入院したら、末期の肝硬変であることがわかり、入院して3週間で亡くなった。91...

and the spring goes on...

いつかは別れがやってくることはわかっていたけど、ばあちゃんが死んだ。年明けに具合が悪くなって「一週間ばかり」のつもりで入院したら、末期の肝硬変であることがわかり、入院して3週間で亡くなった。91歳になったばかりだった。

自分にとってばあちゃんは特別な存在だった。親が共働きだったので保育園の迎えにはばあちゃんが来てくれていたし、夏休み冬休み春休みはばあちゃんと過ごす時間が長かった。中学生くらいまでばあちゃんの部屋に布団を敷いて寝てた。

大学を出て病気になり、治療のために実家に帰ってきてからは、ばあちゃんととにかくよく出かけた。竹田の岡城跡の桜、知覧の特攻記念館、久住の紅葉などなど、後期高齢者をいろんなところに連れて回った。ばあちゃんは親と友達の中間のような存在だった。 Flickr にはばあちゃんの写真がいっぱい上がっている。

入院後は休みの度に看病をしに帰省した。写真を見せてやろうと、これまでに自分が撮ったばあちゃんやひ孫たちの写真を大量にプリントして病室に持っていった。家にあった昔のアルバムも病院に持っていって見せた。

ばあちゃんの具合がよくて話ができるときには、ばあちゃんが子どもの頃の話や昔の話を聞いて iPhone に録音した。ばあちゃんの実家は旧士族でそこそこ金持ちだったため、ばあちゃんが赤ん坊の頃の写真があったりした。亡くなる二日前に子ども時代の写真を押し入れから引っ張り出して病室に持っていって見せたらとても喜んだ。

入院中、ばあちゃんは早く死にたいと言っていた。「ばあちゃんはいつ死ぬとじゃろか」と俺に聞くこともあった。みんなに迷惑がかからないように早く死にたいからご飯は食べたくない、とも言っていた。本人には病状は知らされてなかったので、最後まで自分の病気が何なのかは分かっていなかった。しかし助かる見込みはないということは分かっていたと思う(亡くなる前まで意思疎通はできていて、痴呆ではなかったから頭はハッキリしていた)。

平日会社に行っているときにはばあちゃんのことが気がかりで仕事が手につかなかった。自分はいったい何のために実家を出たのだろう。実家を出ずに家にいて地元で働いてればもっとばあちゃんの面倒を見られたし、最初に体調が悪くなったときに病院に連れて行ってもっと長生きさせてあげられたかもしれない。自分がいま置かれている現状を悔やむことが多かった。

火曜日の夜、11時頃ベッドに横になってうとうとしていたら母から電話がかかってきて、亡くなったことを知らされた。結局、死に目に会うことはできなかった。

若い頃は、何を勉強したいとか、どういう仕事に就きたいとか、どんな暮らしをしたいかとか、そういうのばっかりでどこの学校に行くか、どこで働くか、どこに住むかを考えてしまう。ずっと地元に残るということが考えられなかった。しかし実家の近くに住んで、家族が病気のときにはすぐ駆けつけられるのが一番こころ穏やかでいられるのではないかと思うようになった。どんな仕事をするか、どれだけの収入を得るか、どんな暮らしをするか、そういうことも人生の中で大切なことではあると思う。ただそのために自分の両親や祖父母の面倒を見ることが出来ないのは何か違うんじゃないかと考えるようになった。

ばあちゃんが入院している間、阿蘇山がとても勢いよく噴煙を上げていた。まるでばあちゃんの具合が悪くなるのに呼応するかのように黒々とした煙を上げ、阿蘇谷に火山灰を降らせた。葬儀の日は特にひどく、雪と見まごうばかりの灰の塊を降らせていた。

ばあちゃんの死を通じて、自分のルーツを深く考えるようになった。時を同じくして阿蘇の火文字焼きの中止と終了が発表された。子どもの頃、ばあちゃんと一緒に見た阿蘇の火文字焼きがなくなってしまう。ばあちゃんと一緒に阿蘇の習慣が失われたような気がして言い様のない寂しさを覚えた。

自分はばあちゃんが91年間住んでいた阿蘇を飛び出してどれだけの価値を生み出せたのだろう。ばあちゃんの死に目に会えなかったことに見合うだけの人生を歩んでいるのだろうか。

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2014年、つらいこといろいろあったけど、肉体的に一番つらかったのは痔ろうの再発だった。精神的なつらみもつらいといえばつらいけど、肉体的なつらみは肌身にしみて感覚となって残るのでなかなか記憶が薄...

2014年、つらいこといろいろあったけど、肉体的に一番つらかったのは痔ろうの再発だった。精神的なつらみもつらいといえばつらいけど、肉体的なつらみは肌身にしみて感覚となって残るのでなかなか記憶が薄れない。

2012年に痔ろうになった(そのときの様子)。一旦治ったと思ってたんだけど完治してなくて、2013年の8月に病院に行ったら治ってないからもういっぺん手術した方がいいと言われた。仕事が忙しい&病院の予約がいっぱいでなかなか手術しに行けず、年が明けた2014年の1月に手術しに行った。

痔ろうの治療といえばケツの穴と痔ろうの穴にゴム紐を通すシートン法が定石なんだけど、再手術ではそれはやらずに済んだ。しかし過去の手術痕があるところを切開して排膿するという痛いやつで、また生理用ナプキンをつけて暮らす日々が始まった。

ちょうどその頃、息子殿を託児所に預けることがあったんだけど、見事にウイルスかなんかをもらってきて嘔吐・発熱した。小さい子どもはしゃべれないので何の前触れもなくいきなりゲロ吐いたりするから、もろにゲロを全身で受け止めたりしてた。そしたら当然のごとく自分と嫁さんにもうつった。

親二人への感染は時差があった。子どもは治ってけろっとしてるのに俺と嫁さんだけ38℃以上の熱が出て激しい下痢に見舞われた。

がたがた震えながら車を運転して夜中に市の急患センターに行き点滴をしてもらった。点滴してる間もお腹は痛いのでトイレに行きたくなる。点滴台を抱えて急患センターのベッドとトイレを行き来するような状態だった。自分は具合悪くないのに夜中に急患センターにつれてこられ両親がそろって注射針刺されて点滴されてるの見て子どもはパニック状態に陥って泣く。さらにケツは切開したままの状態で膿や血が出続けている。自宅では用を足した後はポータブルウォシュレット的なやつでケツを洗ってたんだけど急患センターのトイレはウォシュレットなくて泣く泣くトイレットペーパーでおしりを拭いてた。これはやばいのではと思っていたけど案の定やばかった。

胃腸炎が治り出社した日、会社から帰ってきたらケツから血が止まらないことに気がついた。生理用ナプキンでは吸収し切れてなくて、パンツが血まみれになっていた。トイレに入ってトイレットペーパー当てると一瞬で真っ赤になった。これはやばいと思って夜だったけど病院の院長の携帯に電話して事情を説明した。急遽見てもらえることになったので半ケツを浮かせた状態で車に乗って病院に行った。

パンツとズボンは血まみれで穿いて帰れなかったので病院の手術着をもらってノーパン状態で帰宅した。車なかったら異様な格好で地下鉄に乗車する羽目になるところだった。

こうして思い返しても急患センターに行ったときやケツから血が止まらなかったときは阿鼻叫喚の地獄絵図状態だったと思う。自分的にはかなりつらいのに世間的には大して重傷じゃないというのもつらい。

痔ろう、最近はオモコロとかデイリーポータルゼットとかで馬鹿がかかる愉快な病気みたいな扱いで紹介されてるけどマジでなるとつらいので世の中の人はもっと痔ろうへの理解を深めるべきだと思う。

電車ががらがらに空いてるのに座らず立ってる人を見かけたら好奇の目で見たりせず事情を斟酌してやって下さい。

僕からは以上です。


この記事は今年つらかった事 Advent Calendar 2014 13 日目の記事でした。来週は tktym2t さんです。

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職業プログラマーになってニュースとか社会現象について知りたいという気持ちが薄れてニュースとかあんまり見なくなったし新聞も昔は結構読んでたんだけど、最近はほとんど読んでなかった。ただ家を買って住宅...

職業プログラマーになってニュースとか社会現象について知りたいという気持ちが薄れてニュースとかあんまり見なくなったし新聞も昔は結構読んでたんだけど、最近はほとんど読んでなかった。

ただ家を買って住宅ローン組んだので金利が気になるし、住宅ローン金利は国債の金利にひもづいているので、国の経済状態とか経済政策も気になるようになる。となると新聞読みたくなってくる。

コンビニで売ってるやつとか日経のお試し一週間とかでしばらく読んでみたんだけど、ニュースを読むという体験自体は良いものの、毎月5000円弱払って宅配してもらっても平日はなかなか新聞読む時間がなかったりする。

これまで電車の中での時間の過ごし方はだいたい Kindle で技術書眺めるか10年前に買ったカラマーゾフの兄弟を読み進めるか iPhone で Rebuild.fm を聞くか Twitter を見るかフィードを読むというものだった。新聞が手元にあったらこれに新聞を読むというのが加わるんだけど、毎日新聞を読むという訳にもいかないから、日によっては新聞を全部読み終わることがないまま次の日を迎えることがある。こうなると新聞代がもったいない。また新聞を毎日読むと結構かさばる。古新聞の処分は結構面倒くさい。

前、元朝日新聞記者の烏賀陽弘道さんのウェブサイト上のコラムを読んでいて、ニューヨークタイムズの日曜版みたいのを日本で読みたいと思った。

一週間に一度、週末だけ読んでいれば世の中の大体の動きがわかる、というようなタイプの新聞があったらどれだけいいだろうかと思う。

週刊誌というものも確かにある。ただ週刊誌は新聞よりもセンセーショナリズムに走りがちだ。正直読んでいて疲れる。スキャンダルの詳細は知りたくないのだ。

昔スターバックスでアルバイトしてた頃、朝日新聞が週一回刊行されるセブンとかいう名前のタブロイド新聞を出していて、アルバイト先で売っていたのを思い出す。結構いい取り組みだと思ったんだけど、すぐ廃刊になってしまった(お客さんは手に取りはするけど誰も買わなかった)。 Wikipedia で見てみると二ヶ月で廃刊になったみたいだ。

いまこういうのあったら非常に良いなぁと思う。当時のセブンは若者向けとか銘打ってて、週刊子どもニュースみたいな易しい内容だったような気がする。もっと大人向けで、難しい記事も載ってて政治経済や世界情勢、書評欄も充実してる日曜刊の週刊紙を日経とかが出してくんないかな。


追記

週刊ダイヤモンドとか週刊東洋経済読めば良いのかもしれないと思い始めた。ただサラリーマン向けに特化した雑誌は疲れるんだよな。もうちょい一般性がある新聞よりのやつが読みたい。

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朝定食です。 pic.twitter.com/oK4Pr0WpoM— ゴニーモンザレス (@morygonzalez) September 3, 2014自宅で密造した朝定食です pic.twi...

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面白かったので便乗して書きます。iPod 、大学3年の頃に友達が買って見せびらかしてまわってたのが最初の出会いだった。当時は自分は Windows 使ってて Apple 周辺の事情に疎く、特に ...

面白かったので便乗して書きます。

iPod 、大学3年の頃に友達が買って見せびらかしてまわってたのが最初の出会いだった。当時は自分は Windows 使ってて Apple 周辺の事情に疎く、特に iPod を欲しいとも思わなかった。

初めて iPod を買ったのは就職活動に失敗して留年していた頃だ。家の近所をぶらついていて、確か発売されたばかりで結構品薄だったのを偶然発見し、就職活動が終わって始めた居酒屋のバイトでもらった初めての給料で買った。第四世代 iPod のモノクロのやつで、ディスクの容量は 20GB だった。

iPod を買った年の冬に精巣腫瘍になって翌年の正月に病院に行ってがんだと分かり入院・手術した。病院はおそろしく退屈で病人生活を始めた最初の頃はパソコンとか持ち込んだりしてなくて、 iPod で音楽を聴くか新聞を読むくらいしか楽しみがなかった。抗がん剤の治療をするようになってからは、点滴されながらじっと iPod で音楽聞いてた。音楽聞いて抗がん剤の吐き気とかを紛らわせようとしてた。

第四世代 iPod は Apple タイマーが正常に機能して、購入からぴったり一年後に壊れてしまった。 HDD が死んだぽかったので開腹してハードディスク入れ替えたら良さそうだったけど当時はハードディスクもそこそこ高く、海外に旅行に行く直前に(飛行機に10時間以上乗るのに無音はつらかったので)第五世代の iPod を買った。こちらは 30GB のディスク容量で、カラー液晶になっていて写真を閲覧したりもできた。

第五世代 iPod は京都で半年入院してるときに重宝した。この頃は抗がん剤の副作用で耳鳴り・高音難聴に苦しんでいたのでよく音楽を聞いた。あと当時付き合っていた女性にふられたのでコールドプレイの "Warning Sign" をエンドレスリピートしながら京都の寺社仏閣を一人でふらふらと歩いて回ったりした。退院して北海道まで青春18きっぷで行ったときもひたすら第五世代 iPod で音楽を聞いていた。

第五世代 iPod は液晶から壊れはじめた。縦方向に筋が入るようになり、最終的には筋が広がって筋の隙間からのぞき見るようにして画面を見る必要があった。iPhone 3G を買ってからは歩くときは iPhone で音楽聞くようになったので、 iPod はもっぱら車の中で音楽聞くとき専用端末になった。最後はオートバックスの駐車場でドアポケットの掃除かなんかしてるときになくしてしまったっぽくて行方不明になった。

実は最初にインターネットに接続したパソコンは弟が音楽製作用に買っていた初代 iMac のタンジェリンのやつで、パソコンの原体験は Apple にあった。大学ではレポート提出とかの都合上 Windows を使っていたけど、数年ぶりに Apple 製品に触れて再び Apple 熱が高まり、 AirMac Express を買って Air Tunes で音楽聞くようになった。

iPod が画期的だったのは、 iTunes のライブラリと iPod を同期して使うところだった。それまでの MD や既存の mp3 プレーヤーは、プレーヤーに入れたい曲を選択してプレーヤーに移す、という作業が必要だった。昔の iPod の CM に、家の Mac で聞いていた音楽の続きを出かけるときに iPod で聞く、というやつがあったけど、そういう発想は他のプレーヤーにはなかったと思う。最初は馴染めなかったけど、曲のレートや再生回数が iPod と iTunes で同期される便利さに慣れると、 iPod 大勝利だなと思うようになった。2ちゃんねるで SONY のプレーヤーの悪口を吹聴して回るほどだった。

しばらく Apple 製品使ってないうちに OS X が出ていることを知り、 OS X の GUI の美しさにびっくりした。当時の Windows XP のフォントはアンチエイリアスがきいておらずシャギーだった。 OS X といい、 iPod - iTunes といい、 Mac/Apple の方が Windows/Microsft よりもだいぶ進んでいるなと感じた。 Windows に無理矢理 Osaka フォント入れたりして Mac 化したりしてた。次パソコン買うなら絶対 Mac だなと思うようになっていた。

大学卒業して入院しているときには病院があまりにも暇でノートパソコンが欲しくなったので、 DELL の安いノートとかにしたらと母親に言われたものの、どうしても Mac がいいとだだをこねて PowerBook G4 の 17 インチのやつを買ってもらった。これを使って病院でブログ書いたりしてた。ブログいじりが楽しくて PHP とか少し触るようになり( Mac は簡単にウェブサーバーを立てることができるので病院とかでも PHP のコードいじったりするのに向いてた)、結果的に Web の仕事がしたいと思うようになって今日に至っているような気がするので、 iPod 買ってなかったら Mac を欲しいとも思わなくてプログラミングをやり始めることもなく、何の能力を身につけることもないまま今も親のすねをかじってニートをしていたかもしれない。