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プライベート・ライアンに引き続き戦争映画を見た。これは実際に93年にソマリアであった「モガディシュの戦闘」をベースにした作品だ。ノンフィクションの原作があり、それを『ハンニバル』のリドリー・スコットが映画化した。

一言でいうとこの映画はグロい。冒頭はトップガンみたいに、基地で兵士たちが冗談を言い合ったり和気藹々としてるんだけど、モガディシュの戦闘で一気に暗くなる。

モガディシュの戦闘とは、ソマリアに駐留するアメリカ軍が、アイディード将軍率いる反政府勢力の副官二人を誘拐しようとしたもの。当初、死者は出ず、30分程度で終わると考えられていた作戦だったが、様々なトラブルが相次ぎ、死者18人、70人以上が負傷するという結果となった。

タイトルの『ブラックホーク・ダウン』とは、無線交信の "We got a Black Hawk Down" に由来するらしい。旧式の装備しか持たないソマリアの民兵に、アメリカ軍のヘリコプターが撃墜されるはずがない。そう考えられていたのに、RPG-7というロケット弾で簡単にブラックホークが撃墜されてしまった。

撃墜されたブラックホークに搭乗していた兵士を助けるために救出隊が向かうのだが、墜落現場はソマリアの市民たちに包囲され、兵士は殺される。のみならず、遺体を引きずり出して裸にし、市中を引き回す。この映像が世界中に流れ、アメリカはソマリアからの撤退を決定し、以後の軍事介入に消極的になった。

アメリカ軍の死者18名に対し、ソマリアの民兵は300人から1000人が死亡したといわれている。死者数でいえばアメリカの圧勝だし、アイディード派の幹部を誘拐するという目標も達成されているので作戦成功のように思われるが、映画を見る限りアメリカが勝利したという印象は微塵もない。

リドリー・スコットといえば様々なグロ映画を撮ってきたことで有名な人だ。今回もプライベート・ライアンのオマハビーチ上陸シーンに負けず劣らずグロいシーンが登場する。RPG対戦車砲で下半身を吹き飛ばされ、上半身だけになってしまった兵士。同じくRPG対戦車砲の不発弾が体を貫通し、左腕を失う兵士。そしてそれを拾い、ポケットにしまう兵士。銃撃によって右手親指がちぎれそうになる兵士。民家に隠れて脚を負傷した兵士の応急処置をするシーンはとにかく痛そうだ。血圧を下げられないため麻酔なしで傷口に手を突っ込み、腿動脈を掴んで止血しようとする。

テレビに出てくるイラクやアフガニスタンに駐留するアメリカ兵たちは、防弾チョッキやヘルメットで完全防護されているような印象を受けるが、実際は敵の砲弾で四肢を失うリスクに晒されながら任務に従事しているのだ。

しかしこれこそがリアルな戦争であり、現実なんだと思う。自国の兵士にこれだけ悲惨な目に合わせながら守るべきものとはいったい何なのだろうか? 民主主義? アメリカの国益? 開発利権? 自由?

アメリカはこの事件が原因でアフリカの紛争への介入に消極的になったと言われている。ルワンダ大虐殺の犠牲者数が拡大したのはアメリカおよび国連の積極的な介入がなかったからだとも言われる。

一方でイラクやアフガニスタンのように、介入した結果、国際的な非難を受けることもある。

戦争の現実と、国際的な紛争の解決・介入について大いに考えさせられる映画だった。

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 プライベート・ライアンをレンタルして見た。

 Gigazineにプライベート・ライアン冒頭のオマハビーチ上陸シーンをたった三人で再現、みたいな記事が出てて、それを見て無性にまた映画を見たくなって、レンタルした。

 やはり冒頭のオマハビーチ上陸シーンは圧巻である。一般の戦争映画は人間の手足がちぎれたり、はらわたを露出して苦しむ兵士の姿は出てこない。爆弾が落ちても、迫撃砲でやられても、建物が壊れて人が五体満足のまま飛び跳ねるだけだ。

 しかし建物を破壊するような威力のある砲弾が人体に当たれば、どんな結果をもたらすかは明らかだ。四肢が飛び散り、人間の体はミンチになってしまうのだ。

 そういう戦場の真実を再現している点で、プライベート・ライアンはすごい。

 上陸シーンで印象的なのが、人海戦術だ。冒頭、揚陸ボートの前方ハッチを開けた瞬間、ドイツ軍の機銃掃射で兵士たちが次々死んでいく。しかし撃たれても撃たれても次々にボートが到着し、兵士がビーチに向かって前進する。海はアメリカ兵たちの血で真っ赤に染まる。

 そもそもノルマンディー上陸作戦全体では、あまり大した被害は出ていないらしい。唯一オマハビーチ上陸作戦だけが死傷率50%を超えるという凄惨な状況だったようだ。

 これには作戦上のミスがいくつかあったらしく、戦車を運んでいた揚陸艇が高波にさらわれて、すべての戦車が水没したらしい。そのためビーチで兵士たちをドイツ軍の機関銃から遮る物がなにもなく、被害が拡大したようだ。

 僕はプライベート・ライアンの後に、現代の戦争をテーマにした『ブラックホーク・ダウン』という映画を見たんだけど、プライベート・ライアンでは負傷した兵士が結構放って置かれる印象を受けた。少なくとも、戦闘が終わるまではどんなに怪我をしようとも構ってもらえない。まあそれが戦場のクールな現実だと思うんだけど、ブラックホーク・ダウンでは、ちょっとでも味方兵士が負傷すると。「Medic!(衛生兵)」という怒号が飛び交う。

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 『Mr.ビーン カンヌで大迷惑』を見た。

 僕は高校生のころからMr.Beanが好きでよく見ていた。Mr.Beanは10年前にも映画化され、『ビーン』というタイトルで劇場公開された。これはMr.Beanが手違いで英国の著名な美術評論家としてアメリカに派遣され彼の地ではちゃめちゃやるというもの。でも基本、披露されるギャグがテレビ版からの拾い集めで、テレビシリーズの要約版という要素が強かった。まぁ面白かったけど、テレビ版の方が断然面白いと思う。(アメリカよりもイギリスの方がかちっとした格式を重んじる国柄だと思うけど、イギリス人のMr.Beanが生真面目なアメリカ人の学芸員の家にホームステイしてはちゃめちゃなことをやらかすというのは皮肉が効いていて逆に面白いかも。この辺のアメリカ人を困らせる感じは『ボラット』に近い)

 それで今回の『Mr.ビーン カンヌで大迷惑』なわけだけど、こちらは『ビーン』に輪をかけてつまらなくなっていた。理由を考えるに、

  • そもそもMr.Beanは狡猾かつ卑怯な手段でちょっとした得をしようとするところが面白いのに、映画では善人として登場するので狡猾さや卑怯さを表現しにくい。(ドラえもんの劇場版でジャイアンやスネ夫が善人になるのに似ている。でもジャイアンやスネ夫は脇役なので劇場版で善人になると新鮮な感じがしてすがすがしい気分になれるんだけど、Mr.Beanは主人公である。狡猾な主人公が映画版で急に善人になるのは「なんか違うだろ」という気がしてしまう)
  • テレビ版は10分程度の細切れコントの中にギャグを詰め込んでいくので、ストーリーとか全体の流れを気にせずにやりたい放題やれる。しかし2時間の映画版だと映画のストーリーという絶対に外してはならない長大な流れがあって、これに沿わなければならない。一つ一つの場面があとにつながるための意味を持たなければならない。そのため全体的に窮屈な印象を受けることになる。

の二点かな。

 Mr.Beanはクジでカンヌ行きの旅行券を当ててカンヌ旅行に出かけるんだけど、途中で列車に乗り遅れたりレストランではちゃめちゃやったりと大暴れする。まぁこの辺はテレビシリーズでも繰り広げられるような、おなじみの展開。なんだけど列車に乗って以降の展開がぐだぐだ感あふれていて、正直だるかった。書くのもだるい感じなので詳細は書きませんけど。

 ラストなんか前作『ビーン』以上に露骨なハッピーエンドで、退屈極まりなかった。

 総じてギャグにもブラックさがなくて、いまいち。例えば『ビーン』ではアメリカの空港で、本当は銃を持っていないのに、警察官の姿を見かけるやジャケットの内ポケットに手を入れる仕草を繰り返して警官を挑発したりと、テレビシリーズで見られるような非常にきわどいギャグが見られた。翻って今作では物乞いの真似事のようなことをやるとこらへんくらいしかブラックなギャグは披露されず、物足りなかった。

 やっぱりMr.Beanはイギリスの物憂げな空のもと、人を小バカにするような感じで破天荒ギャグを繰り広げてこそだと思う。南仏の明るい太陽の下ではMr.Beanの陰惨なギャグは冴えない。

 蛇足ですけど、テレビシリーズで僕が好きなMr.Beanのエピソードは、DVD3巻に収録されている『ミスター・ビーンのクリスマス』ってやつ。これはすこぶる笑えるので、レンタル屋でDVD置いてたら借りてみてください。百貨店でクリスマスツリーの飾りを床にたたきつけて強度を調べる、クリスマスツリーを買おうとしたら自分の番の直前で売り切れたので広場のもみの木を倒して持ち帰る、七面鳥の重量当てクイズで体重計を使う等々、Mr.Bean飛ばしまくりです!

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 予告編はすごく面白そうだったんだけど、まぁ普通の映画だった。

 主人公は田舎からパリに出てきた女の子で、劇場前のカフェで給仕の職を得る。カフェには劇場で舞台を演じる役者やオークションでコレクションを売り払う予定の美術品収集家やコンサートを開くピアニストがやって来るんだけど、給仕の女の子とそんな芸術家たちの交流を描いた物語。

 ほのぼの心が温まる系の映画だと思うんだけど、一番の要点はそこじゃなくて、この映画が伝える真のメッセージは「人生あきらめが肝心」ということだと思った。

 劇場の雑務員として働く女性は、本当はミュージシャンになりたかったんだけど才能が足りなかったため、少しでも彼らに近い場所に身を置こうと劇場で働くことにした。主人公の祖母も若い頃はセレブにあこがれたが、あきらめてホテルの客室掃除の職に就いた。華やかな世界の陰には、厳しい現実があり、人はそれを受け入れて生きていかなければならない。そんなメッセージをこの映画から受け取った。

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 1970年ごろのフランスが舞台。主人公はちっちゃな女の子アンナで、父親は弁護士、母親はマリ・クレールの編集者で、経済的に恵まれた暮らしをしていた。しかしスペインから父の妹親子(アンナにとっての叔母といとこ)がフランコ政権による迫害を逃れてやって来たことで父の様子が変わり、一家の暮らしも変容していくことになる。父は隠れ共産主義者だったのだ! 南米チリの様子を視察に出かけた両親はすっかり赤い思想にかぶれてしまい、豪邸から狭いアパートに引っ越しし、家にはヒゲもじゃのキョーサン主義者たちが入り浸る。赤化した父によって学校では楽しみにしていた宗教の授業を受けることを禁止され、大好きだったキューバ難民の家政婦はギリシア難民のベビーシッターにすげ替えられ、アンナはストレスが溜まる一方(タイトルの「ぜんぶ、フィデルのせい」とは、キューバからやって来た家政婦のおばさんがカストロのことを悪く言うときに使ったセリフ)。小さい子ども視点から、両極の思想を相対的に眺めた作品。

 後々明らかになるんだけど、実は父親はスペインの貴族階級出身で、その祖父や父は小作農たちを苦しめていた様子がうかがえる。その反動で左翼思想に染まってしまったのだ。家族を振り回すお父さんにも複雑な事情があったというわけ。でもおかげで家族は狭いアパートに住み、夜な夜な変な活動家連中を受け入れて窮屈な思いをする。世の中を良くしたいと願う善良な左翼活動家ほど自分の生活を犠牲にしなければならないのが滑稽だった。左翼活動というのは旧ソ連のソフホーズやコルホーズと一緒で、真面目にやればやるほど損をする仕組みのような気がするな。毎晩アンナの家に押しかけ、タバコをくゆらせながら酒を飲むヒゲもじゃキョーサン主義者たちが一番楽しそうに見えた。

 一方でアンナは、学校の先生たちのキリスト教一辺倒な価値観にも疑問を持ち始める。キューバ難民、ギリシア難民、ベトナム難民とベビーシッターが変わって行くにつれて各地の神話を学び、キリスト教の価値観が絶対ではないことを知る。キリスト教だろうが共産主義思想だろうが、無批判にひとつの考え方だけを受け入れることの愚かさが描かれている。特定の思想なり宗教なりを否定するわけではなく、多様な視点から物事を見ようとするアンナの姿勢が良かった。

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4ヶ月、3週と2日

評価 : ★★★★★

 社会主義政権崩壊前のルーマニアが舞台。かなり面白かった。久々に映画を見て鳥肌が立った。

 主人公は女子大生のオティリア。ルームメイトのガビツァが望まない妊娠をしてしまい、中絶することになった。しかし当時のルーマニアで中絶は犯罪。モグリの医者に違法中絶を頼むのだが・・・。

 主人公のルームメイトのガビツァという吉川ひなの似(なんかキャラも似てる)の女の子が自己中の救いようのない女で、オティリアに迷惑かけまくる。もう大人なんだから自分のことは自分で管理するのが当たり前なのに常に他力本願というか。そのくせやることはやっていて、父親の分からない子どもを身ごもってしまう。

 物語中、とてもグロテスクなシーンがあるんだけど、これはかなりすごかった。堕胎や手術の描写がグロテスクなのではなく、ストーリー展開自体がグロテスクなのだ。友人のために究極の選択を迫られるオティリア。そこで彼女が取った行動とは。

 末期の社会主義国の描き方も興味深かった。全体的にブカレストの街は灰色で、車も家もボロボロ。賄賂を渡さないとホテルの部屋も取れない。その一方で権威主義が行き渡っていて、田舎出身のオティリアは、学者一族のボーイフレンドの家族に出自をバカにされる。

 カンヌ映画祭でパルムドールに輝いたということだけど、納得の一作だった。

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 主人公アラン・ジョンソンは成功した歯科医で、ある日ニューヨークの街角で学生時代に寮のルームメイトだった友人、チャーリー・ファインマンの姿を見かける。しかし友人は911のテロで家族を失って以来、正常な精神状態を失っていた。アランはチャーリーを立ち直らせようと奔走するのだが・・・

 主役はドン・チードル。役柄は『16歳の合衆国』でやったのに近い。しかし、『16歳の合衆国』の方が圧倒的におもしろかったし、リアルだった。実はこの映画、隠れたプロパガンダ作品なのではないかとすら思った。ときどき「外国の悪魔たちのせいで」みたいな台詞がさらっと出てくる。ヒューマン映画を装いつつもアルカイダ批判、アフガン侵攻やイラク戦争の正当化を忘れない、みたいな。こういうのは気持ち悪いですね。