| @雑談

床寝、体の節々が痛むけど目覚めたときの爽快感は布団で寝たときよりもある気がする。多分錯覚だけど。木の床、夏はひんやりして気持ちよく、特に床で寝るつもりなかったのに寝てしまっていることが度々ある。ただ、意図して床で寝ることもある。たとえば家人に文句を言われて寝室で寝られない状況になったときに床で寝ることになる。このときはつらいし体痛いし情けなさがこみ上げてきて非常につらい。自分の意思ではなく意識が途絶えて無意識のうちに床で寝てしまったときは爽快感があるのに、自分の意思で床に寝ようとすると体が痛くてなかなか寝付けず、明け方に目が覚めてしまったりして最悪。つまり床で寝られる精神状況と床で寝られない精神状況があって、前者は幸福、後者は不幸なのだと思う。自分が幸せか不幸せか分からない人には床で寝てみることをおすすめします。あなたはいま幸せですか?


この記事は床寝 Advent Calendar 2015 - Adventar 4 日目の記事でした。明日は @miyucco さんです。

| @雑談

and the spring goes on...

いつかは別れがやってくることはわかっていたけど、ばあちゃんが死んだ。年明けに具合が悪くなって「一週間ばかり」のつもりで入院したら、末期の肝硬変であることがわかり、入院して3週間で亡くなった。91歳になったばかりだった。

自分にとってばあちゃんは特別な存在だった。親が共働きだったので保育園の迎えにはばあちゃんが来てくれていたし、夏休み冬休み春休みはばあちゃんと過ごす時間が長かった。中学生くらいまでばあちゃんの部屋に布団を敷いて寝てた。

大学を出て病気になり、治療のために実家に帰ってきてからは、ばあちゃんととにかくよく出かけた。竹田の岡城跡の桜、知覧の特攻記念館、久住の紅葉などなど、後期高齢者をいろんなところに連れて回った。ばあちゃんは親と友達の中間のような存在だった。 Flickr にはばあちゃんの写真がいっぱい上がっている。

入院後は休みの度に看病をしに帰省した。写真を見せてやろうと、これまでに自分が撮ったばあちゃんやひ孫たちの写真を大量にプリントして病室に持っていった。家にあった昔のアルバムも病院に持っていって見せた。

ばあちゃんの具合がよくて話ができるときには、ばあちゃんが子どもの頃の話や昔の話を聞いて iPhone に録音した。ばあちゃんの実家は旧士族でそこそこ金持ちだったため、ばあちゃんが赤ん坊の頃の写真があったりした。亡くなる二日前に子ども時代の写真を押し入れから引っ張り出して病室に持っていって見せたらとても喜んだ。

入院中、ばあちゃんは早く死にたいと言っていた。「ばあちゃんはいつ死ぬとじゃろか」と俺に聞くこともあった。みんなに迷惑がかからないように早く死にたいからご飯は食べたくない、とも言っていた。本人には病状は知らされてなかったので、最後まで自分の病気が何なのかは分かっていなかった。しかし助かる見込みはないということは分かっていたと思う(亡くなる前まで意思疎通はできていて、痴呆ではなかったから頭はハッキリしていた)。

平日会社に行っているときにはばあちゃんのことが気がかりで仕事が手につかなかった。自分はいったい何のために実家を出たのだろう。実家を出ずに家にいて地元で働いてればもっとばあちゃんの面倒を見られたし、最初に体調が悪くなったときに病院に連れて行ってもっと長生きさせてあげられたかもしれない。自分がいま置かれている現状を悔やむことが多かった。

火曜日の夜、11時頃ベッドに横になってうとうとしていたら母から電話がかかってきて、亡くなったことを知らされた。結局、死に目に会うことはできなかった。

若い頃は、何を勉強したいとか、どういう仕事に就きたいとか、どんな暮らしをしたいかとか、そういうのばっかりでどこの学校に行くか、どこで働くか、どこに住むかを考えてしまう。ずっと地元に残るということが考えられなかった。しかし実家の近くに住んで、家族が病気のときにはすぐ駆けつけられるのが一番こころ穏やかでいられるのではないかと思うようになった。どんな仕事をするか、どれだけの収入を得るか、どんな暮らしをするか、そういうことも人生の中で大切なことではあると思う。ただそのために自分の両親や祖父母の面倒を見ることが出来ないのは何か違うんじゃないかと考えるようになった。

ばあちゃんが入院している間、阿蘇山がとても勢いよく噴煙を上げていた。まるでばあちゃんの具合が悪くなるのに呼応するかのように黒々とした煙を上げ、阿蘇谷に火山灰を降らせた。葬儀の日は特にひどく、雪と見まごうばかりの灰の塊を降らせていた。

ばあちゃんの死を通じて、自分のルーツを深く考えるようになった。時を同じくして阿蘇の火文字焼きの中止と終了が発表された。子どもの頃、ばあちゃんと一緒に見た阿蘇の火文字焼きがなくなってしまう。ばあちゃんと一緒に阿蘇の習慣が失われたような気がして言い様のない寂しさを覚えた。

自分はばあちゃんが91年間住んでいた阿蘇を飛び出してどれだけの価値を生み出せたのだろう。ばあちゃんの死に目に会えなかったことに見合うだけの人生を歩んでいるのだろうか。

| @雑談

2014年、つらいこといろいろあったけど、肉体的に一番つらかったのは痔ろうの再発だった。精神的なつらみもつらいといえばつらいけど、肉体的なつらみは肌身にしみて感覚となって残るのでなかなか記憶が薄れない。

2012年に痔ろうになった(そのときの様子)。一旦治ったと思ってたんだけど完治してなくて、2013年の8月に病院に行ったら治ってないからもういっぺん手術した方がいいと言われた。仕事が忙しい&病院の予約がいっぱいでなかなか手術しに行けず、年が明けた2014年の1月に手術しに行った。

痔ろうの治療といえばケツの穴と痔ろうの穴にゴム紐を通すシートン法が定石なんだけど、再手術ではそれはやらずに済んだ。しかし過去の手術痕があるところを切開して排膿するという痛いやつで、また生理用ナプキンをつけて暮らす日々が始まった。

ちょうどその頃、息子殿を託児所に預けることがあったんだけど、見事にウイルスかなんかをもらってきて嘔吐・発熱した。小さい子どもはしゃべれないので何の前触れもなくいきなりゲロ吐いたりするから、もろにゲロを全身で受け止めたりしてた。そしたら当然のごとく自分と嫁さんにもうつった。

親二人への感染は時差があった。子どもは治ってけろっとしてるのに俺と嫁さんだけ38℃以上の熱が出て激しい下痢に見舞われた。

がたがた震えながら車を運転して夜中に市の急患センターに行き点滴をしてもらった。点滴してる間もお腹は痛いのでトイレに行きたくなる。点滴台を抱えて急患センターのベッドとトイレを行き来するような状態だった。自分は具合悪くないのに夜中に急患センターにつれてこられ両親がそろって注射針刺されて点滴されてるの見て子どもはパニック状態に陥って泣く。さらにケツは切開したままの状態で膿や血が出続けている。自宅では用を足した後はポータブルウォシュレット的なやつでケツを洗ってたんだけど急患センターのトイレはウォシュレットなくて泣く泣くトイレットペーパーでおしりを拭いてた。これはやばいのではと思っていたけど案の定やばかった。

胃腸炎が治り出社した日、会社から帰ってきたらケツから血が止まらないことに気がついた。生理用ナプキンでは吸収し切れてなくて、パンツが血まみれになっていた。トイレに入ってトイレットペーパー当てると一瞬で真っ赤になった。これはやばいと思って夜だったけど病院の院長の携帯に電話して事情を説明した。急遽見てもらえることになったので半ケツを浮かせた状態で車に乗って病院に行った。

パンツとズボンは血まみれで穿いて帰れなかったので病院の手術着をもらってノーパン状態で帰宅した。車なかったら異様な格好で地下鉄に乗車する羽目になるところだった。

こうして思い返しても急患センターに行ったときやケツから血が止まらなかったときは阿鼻叫喚の地獄絵図状態だったと思う。自分的にはかなりつらいのに世間的には大して重傷じゃないというのもつらい。

痔ろう、最近はオモコロとかデイリーポータルゼットとかで馬鹿がかかる愉快な病気みたいな扱いで紹介されてるけどマジでなるとつらいので世の中の人はもっと痔ろうへの理解を深めるべきだと思う。

電車ががらがらに空いてるのに座らず立ってる人を見かけたら好奇の目で見たりせず事情を斟酌してやって下さい。

僕からは以上です。


この記事は今年つらかった事 Advent Calendar 2014 13 日目の記事でした。来週は tktym2t さんです。

| @雑談

職業プログラマーになってニュースとか社会現象について知りたいという気持ちが薄れてニュースとかあんまり見なくなったし新聞も昔は結構読んでたんだけど、最近はほとんど読んでなかった。

ただ家を買って住宅ローン組んだので金利が気になるし、住宅ローン金利は国債の金利にひもづいているので、国の経済状態とか経済政策も気になるようになる。となると新聞読みたくなってくる。

コンビニで売ってるやつとか日経のお試し一週間とかでしばらく読んでみたんだけど、ニュースを読むという体験自体は良いものの、毎月5000円弱払って宅配してもらっても平日はなかなか新聞読む時間がなかったりする。

これまで電車の中での時間の過ごし方はだいたい Kindle で技術書眺めるか10年前に買ったカラマーゾフの兄弟を読み進めるか iPhone で Rebuild.fm を聞くか Twitter を見るかフィードを読むというものだった。新聞が手元にあったらこれに新聞を読むというのが加わるんだけど、毎日新聞を読むという訳にもいかないから、日によっては新聞を全部読み終わることがないまま次の日を迎えることがある。こうなると新聞代がもったいない。また新聞を毎日読むと結構かさばる。古新聞の処分は結構面倒くさい。

前、元朝日新聞記者の烏賀陽弘道さんのウェブサイト上のコラムを読んでいて、ニューヨークタイムズの日曜版みたいのを日本で読みたいと思った。

一週間に一度、週末だけ読んでいれば世の中の大体の動きがわかる、というようなタイプの新聞があったらどれだけいいだろうかと思う。

週刊誌というものも確かにある。ただ週刊誌は新聞よりもセンセーショナリズムに走りがちだ。正直読んでいて疲れる。スキャンダルの詳細は知りたくないのだ。

昔スターバックスでアルバイトしてた頃、朝日新聞が週一回刊行されるセブンとかいう名前のタブロイド新聞を出していて、アルバイト先で売っていたのを思い出す。結構いい取り組みだと思ったんだけど、すぐ廃刊になってしまった(お客さんは手に取りはするけど誰も買わなかった)。 Wikipedia で見てみると二ヶ月で廃刊になったみたいだ。

いまこういうのあったら非常に良いなぁと思う。当時のセブンは若者向けとか銘打ってて、週刊子どもニュースみたいな易しい内容だったような気がする。もっと大人向けで、難しい記事も載ってて政治経済や世界情勢、書評欄も充実してる日曜刊の週刊紙を日経とかが出してくんないかな。


追記

週刊ダイヤモンドとか週刊東洋経済読めば良いのかもしれないと思い始めた。ただサラリーマン向けに特化した雑誌は疲れるんだよな。もうちょい一般性がある新聞よりのやつが読みたい。

| @雑談

 僕は自分のアパートに帰るとワインの瓶とグラスを出して中谷彰宏の『面接の達人』を読んだ。またまた中谷彰宏だ。面接の達人は飽きもせず僕に説教をしている。

 僕はワインを三杯飲むあいだ中谷彰宏につきあっていたが、途中でだんだん眠くなってきたのであきらめて本を閉じ、バスルームに行って歯を磨いた。これで一日が終わった、と僕は思った。有意義な一日だっただろうか? それほどでもない。まあまあというところだ。

 朝、先物企業の筆記試験を受け、昼は外食企業の一次にして最終の面接を受けてその場で内定を言い渡された。夕方からは住宅販売の会社説明会に参加したが、説明をしていた社員の顔に覇気はなかった。まあまあだ。

 夏休みまで引きずった就職活動の一日はブラック企業の応酬だった。しかしとにかくこれで一日が終わったと僕は思った。

| @雑談

 日曜のお昼前に、切干大根を煮ているときに、UFJ銀行のリクルーターから電話がかかってきた。受話器を取ると、疲れ切ったリクルーターの声が聞こえてきた。

「こんにちは。こちらUFJ銀行です。当行といたしましては是非一度お会いしてお話ししたいので、今度の土曜日に研修所まで来てください」とUFJ銀行のリクルーターは僕の予定も聞かずに言った。

 僕はびっくりしてしばらく口がきけなかった。「お話しするって、具体的にどういうことをなさるのですか?」と僕はやっと尋ねてみた。

「やれやれ、あなたはメンタツを読んだことがないのですか?」とリクルーターは呆れたように早口で言った。僕に聞こえるように電話口の向こうでペンをこつこつと鳴らしさえした。

「メンタツのなかに都市銀行の採用はリクルーター方式だと書いてあるのを、ひょっとしてあなたはご存じないのですか?」

 残念ながらメンタツは一度も読んだことがない。僕は理工系の大学の三年生で就職するつもりはなく、大学院に進学しようと思っている。まわりにもメンタツを読んだことのある人間なんて一人もいないと思う。僕が正直にそう言うと、UFJ銀行のリクルーターは腹立たしげに「ふん」と小さく鼻を鳴らした。メンタツを読んだことがない人間とこれ以上話をしても仕方ないというように。でも電話を切ろうとはしない。

「あの、ところでいったいどうして僕の電話番号をご存じなのでしょうか?」と僕はおそるおそる質問してみた。ひょっとしたら個人情報が流出しているのかもしれない。そうじゃないといいなと僕は思った。僕は勧誘電話の類が大嫌いだからだ。

「そういうものは就職課から送られてくるのです」とUFJ銀行のリクルーターは妙にきっぱりとした口調で言った。「オープン採用を装いつつも、都市銀行は名門校の学生に対してのみリクルーター採用を行っているのです。優秀な学生を確保しておかないと私自身が出世できないので、こちらも必死なのです」

 僕は心からUFJ銀行のリクルーターに同情した。「大変ですね。でもだからといってあまりがっかりしないでください。僕以外の学生は就職を考えているかもしれないのですから」

 そうですね、とリクルーターは答えた。「ところであなたは、ミツビシとミズホのリクルーターが動いているかどうかご存じですか?」と少しでも有益な情報を得ようと僕に尋ねた。

 知らないと僕は言った。だってそんなこと知っているはずがない。僕はシステムデザイン工学の研究で毎日朝から晩まで忙しいのだ。

「嘘だ、あなたは本当は就職活動をしていてミツビシに内定しているんだ!」とUFJ銀行のリクルーターは叫んだ。そしてがちゃんと電話を切った。何がなんだかわけがわからなかったけれど、それ以上ものごとは進展しそうになかったので、僕はお昼に温かいご飯と切干大根を食べた。

| @雑談

 僕がJR東海に勤める渡辺昇という男にOB訪問を依頼したのは2月の中ごろのことだった。資料請求したら、送られてきた封筒のなかに同じ大学の卒業生の連絡先が同封されていたからだ。これってOB訪問をしろということに違いない。

 春の冷たい雨が降るある日の夕方、僕は待ち合わせ場所の東京駅八重洲北口にいた。約束の時間の五分前に渡辺昇はやってきた。一度懇談会に参加したので僕は彼の顔を知っていた。聡明ではあるが特徴のない顔をした男だ。

「やぁ」と渡辺昇は言った。

「こんにちは」と僕は挨拶した。

 渡辺昇は僕を東京駅構内にある居酒屋に連れて行った。OB訪問で酒を振舞われたのは初めてのことだったので、僕はひどく混乱した。おかげでいくらビールを飲んでもちっとも酔いが回らなかったし、とても奇妙な気分になった。それでも僕はちゃんと用意してきた質問をした。僕は機転がきくたちなのだ。

「お仕事は面白いですか」と僕は訊いた。

「仕事? 悪くないね」と彼は答えた。

「どういう仕事をされてるんですか?」

「新幹線を使う旅行商品を作ってるんだ。この前なんか東京駅から京都まで日帰りする商品を作った」

「うーむ」

「君は何がなにがやりたいの?」と渡辺昇は僕が何か感想を述べようとしたのをさえぎって訊いた。やれやれ、せっかちな男だ。

「僕は国鉄を舞台にした映画を撮りたいんです」

「ほう」

「ストーリーはこうです」と僕は言った。「ある晴れた日曜日の朝に僕が原宿の竹下通りを歩いていると、向こうから僕にとって100%の女の子がやってくるんです。我々はマリオンクレープの前で運命的な出会いを果たす。注意すべきは、100%と言ってもあくまで僕にとって100%ということです。だから別に美人じゃなくてもいい」

「ひとつ質問してもいいかな?」と渡辺昇は言った。

「どうぞどうそ」

「その映画は原宿駅が舞台なのかい?」

「そういうことになりますね」と僕は答えた。

「ふーむ」とため息をついてから渡辺昇はビールを飲み干した。「君は勘違いをしているな」

 僕は渡辺昇が言っていることが理解できなかった。僕が一体何を勘違いしてるっていうんだ? ここに来る前にちゃんとメンタツを読んだし、自己分析だってやってきた。採用ホームページに目を通すことも怠らなかった。僕が非難されるいわれはひとつとしてないはずだった。

「君はOB訪問する相手を間違ったんだよ。蜂にミツバチやスズメバチがあるように、JRにも種類があるんだ。JR東海とか、JR東日本とかね。原宿駅はJR東日本の管轄であってうちの管轄ではない」

 それだけ言ってしまうと渡辺昇は伝票を持って席を立った。やれやれ、この男は僕がJR東海とJR東日本を混同したことに対して腹をたてているのだ。

 僕は会計を済ませる彼の姿を眺めながら竹下通りですれ違うはずだった彼女のことを考えた。